私は残業を終えると、勤めている出版社をあとにする。そして駅へと真っ直ぐに向かって歩いていく。
(上京して、もう三年か)
なんとなく見上げた空はさっきまで星が見えていたのに雨が降りそうな気配だ。
(雨……嫌いなんだよね)
それは元彼との別れ話を思い出すから。
あの日も待ち合わせてすぐに雨が降ってきて、私たちは誰も居ないバス停で雨宿りしながら、別れ話をした。
(俊輔、元気にしてるかな)
私は当時、交際していた同い年の俊輔と別れてこの東京にやってきた。
俊輔と私はお互いに一目惚れで高校の時から大学卒業まで七年もの間、付き合った。自慢ではないが大恋愛だった。
でも付き合って欲しいと言ったのも私だったが、別れを切り出したのも私だった。
私にとって──俊輔は初恋。
恋愛といえば俊輔以外の思い出は何ひとつない。
これからも、もしかしたらうんと歳を重ねてもずっとそうなのかもしれない。
心から大好きだった人だった。
でもあの日、雨の音を聴きながら、私は自分から俊輔の手を離した。
──『早紀は勝手だよな』
雨音と一緒に俊輔の掠れた声が蘇る。
俊輔は地元の小さな不動産の跡取り息子だったため、私の上京を知ったとき、遠距離恋愛は嫌だとすぐに反対した。
言葉に出さないだけで俊輔が将来を見据えて交際してくれていることも分かっていた。
でも私はどうしても出版社に就職して編集者になりたかった。
そこまで拘った理由は、私はずっと小説家になるのが夢だったから。
長年、公募やコンテストに出しても中間審査すら通らず、残念ながら私自身に小説家としての才能はないことを痛感した。
たまたまアルバイトで、ある公募の下読みをした際に、客観的に色々な作品を読む中で、不思議とその作品の良い点、悪い点の両方が見えることに気づいた。
そして、小説家としてではなく、編集者として作家さんと面白い作品を創り上げたい。
そう思った私は、片っ端から出版社を採用面接を受け、今の大手出版社の就職を勝ち取った。
今は複数の作家さんを担当しながら、書籍化に向けて奮闘する日々だ。
「欲張りだよね」
別れたことに後悔はないはずだった。それほどあの時は夢を実現したくて一生懸命だったから。
けれど仕事が充実すればするほどに満たされていくのかと思えば、現実は違った。時折一人きりになれば、ふいに寂しさが襲う。
心が彼を求めて苦しくなってしまう。
特に雨の日は──。
(降りそうだな)
私はないと思いつつも鞄の中を漁るが、やっぱり折り畳み傘は入っていない。
「あ……」
空を見上げれば、案の定、ぽつりぽつりと降り出してきた雨に私はたまたま目についた、古びた商店街のアーケード下へ移動した。
古い商店街であることと、時間的に店のほとんどにシャッターが下りている。
(暫くここで雨宿りか……)
雨足はあっという間に強まる。駅までは五分ほどだが、傘無しでは駅に着く頃にはシャワーを浴びたようになってしまうだろう。
「はぁ……いつ止むんだろ」
スマホで雨雲レーダーを検索してみれば、ちょうどこの辺りの雨雲は一時間ほどで移動するようだ。
(一時間なら待てるかな……)
──そう思った時だった。後ろから声が聞こえてくる。
「雨宿りですか?」
低すぎず高すぎず、どこか中世的な凛とした声だった。
ゆっくりと振り返れば、淡いブルー髪色が印象的な、モデル並みに背の高い男性が私を見ていた。
男性は清潔感のある真っ白なシャツに黒いデニムを履いていて、とても端正な顔立ちをしているが、どことなくミステリアスな雰囲気を纏っている。
「……あの……そう、ですけど」
顔に不信感が出てしまっていただろうか。
男性はすぐに眉を下げた。
「すみません、突然話しかけて驚きましたよね。僕、雨宮といいます。そこで喫茶店やってる者です」
「え……、こんな時間に喫茶店?」
「はい、今日は雨宿りの方のために開けてるんです」
(雨宿りの方のために?)
もう少し詳しく聞こうかとも思ったが初対面の為、私は相槌だけ打った。
「あそこなんですけどね」
雨宮と名乗る男性が手のひらで指し示しているのは、商店街の角だ。少し離れているが、確かに昔ながらの喫茶店が見える。
(あれ……さっきここに来たときは気づかなかったな……)
「何も頼まなくても結構ですから。雨宿りして行かれませんか?」
「え……っ、いやそんな訳には……それに一時間ほどで止むはずなので」
私は顔の前でぶんぶんと手を振り、すぐに断った。
「そうですか、一時間で止みそうもないですが……」
(……そんなはず……)
雨宮さんの言葉に私が再びスマホで雨雲レーダーを見れば、雨が上がるのは二時間後になっている。
「嘘……二時間……」
「雨があがるの伸びてましたか?」
「はい……」
私の微妙な顔を見ながら、雨宮さんは柔らかく笑った。
「では、雨が止むまでということで」
私は雨宮さんのどこか安心する不思議な微笑みに小さく頷くと、喫茶店へと向かった。
※※
雨宮さんについて数分歩けば、店の目の前に辿り着く。
「喫茶……『おもひで』?」
「えぇ。知り合いから引き継いだ店なんです」
私は視線を上に上げると店をしげしげと眺めた。30年以上は軽く経っていそうなアンティーク感満載の外観に、年季の入った木彫りの看板がドアにぶら下がっている。
(レトロでおしゃれだな)
「さぁ、どうぞ」
「あ、はい」
カラン、というドアベルの音を聞きながら店内へ足を踏み入れる。
するとすぐにコーヒーのいい匂いが鼻を掠めた。店内には誰もいない。
「ご覧の通り、貸切なので。どこでも好きな席にどうぞ」
そう言うと雨宮さんは、奥からこちらに歩み出てきた黒猫を抱き上げた。
「わ、可愛い」
思わず声を上げた私を見ながら黒猫がニャーンと鳴く。
「うちの看板猫なんです」
「そうなんですね。この子の名前、なんて言うんですか?」
「マメです」
「え?」
「一応、コーヒーが売りでして」
「もしかして……コーヒー豆とその色、からですか?」
「正解です」
私がクスッと笑うと雨宮さんが切長の目を細めた。
そして同時にマメが雨宮さんの両腕をすり抜けると窓際の席に駆けていき、椅子に飛び乗り丸くなった。
「私、あそこの席にします。あとそのお勧めのコーヒー頂いてもいいですか?」
「それは構いませんが……何だか押し売りしてしまいましたか?」
「いえ、そんなことないです。可愛い猫ちゃんを見ながらコーヒーを飲めるなんて癒されるなぁって」
これは心からの本心だ。雨宿りしながら、俊輔との思い出を鬱々と思い出すよりもよっぽどいい。
「では、すぐにご用意致しますね。お砂糖はいかがなさいますか?」
「ブラックで大丈夫です」
「承知致しました」
店内に誰もおらず、商店街を歩いている人も見かけないからだろうか。雨音がここまで聞こえてくる。
(さっきより強くなってきたな)
雨宿りのためにここにきて正解だったかもしれない。
小さな木製テーブルを挟んだ真向かいの椅子では、マメが規則正しい寝息を立てていて、聞こえてくる雨音がさっきよりも優しく感じリラックスしてくる。
(可愛いな……)
私は少し腰を浮かせると、起こさないように椅子の上で眠るマメをじっと見つめた。
その時、カフェエプロンをつけた雨宮さんがこちらに歩いてくる。
「お待たせ致しました。当店の看板メニューである『おもひでコーヒー』です」
目の前に置かれた金彩の美しいアンティークのカップからは芳しい香りが漂っている。
「『おもひでコーヒー』、素敵な名前ですね」
「ありがとうございます。味覚は記憶と繋がっていると言われたりしますよね。このコーヒーがお客様の大切な思い出に彩りを添えられたら嬉しく思います」
(私の大切な記憶と思い出……)
「頂きます」
「はい、雨が上がるまでどうぞごゆっくり」
雨宮はそう言うと、軽くお辞儀をしてカウンターに戻っていった。
(美味しそう)
私はカップを持つとコーヒーを一口、口に含む。芳醇な香りがぐっと凝縮された味が口内に広がる。
「……はぁ……」
安堵にも似た息が漏れる。
どこか懐かしくて、言葉に言い表せない優しい味だ。
(すごく美味しい)
そして、私が再びカップに口付けようとした時だった。
突然──窓の外から聞こえる雨音と一緒に、ある光景が私の脳裏に浮かんでくる。
(え、これ……なに。ここは……)
脳裏に浮かんだそれは、俊輔と雨宿りしながら別れ話をした時の光景だった。
雨の中バス停の下で私と俊輔は、すぐそばの自販機で買ったコーヒーの缶を持ったまま俯いている。
(大学生の時の……記憶……)
まるで映画でも見ているかのような錯覚に陥る。なぜなら《《今の私》》の視界は、大学生の私と俊輔を少し離れた場所から客観的に見ているからだ。
──『早紀は勝手だよな』
離れているのに、俊輔の声が耳元で聞こえる。
久しぶりに聞く彼の声に私の心がぎゅっと苦しくなる。
大学生の私が俊輔を見つめると声を振るわせる。
『本当に好きだったよ。でも……ごめんね、俊輔』
──『謝るなら……いや、何でもない』
この時の私は彼の続く言葉はわかっていた。
それでも一度決めた覚悟は揺るがなかった。
まだ大人になりきれてなかったから。
夢と俊輔との未来を両方選べるほど、器用ではなかった。
俊輔は缶コーヒーをぐいっと飲むと、私をまっすぐに見つめる。
──『俺さ……諦め悪いんだよね』
何を言いたいのか意図がわからず、首を傾げた私の頬に俊輔が触れる。
──『もしさ……もし、また会えたら、その時はもう一回、恋しよう』
そして俊輔は無理矢理、私に笑顔を向けると、雨が止むのを待たずに駆けていく。
『また』を信じているのか、振り返りもせず、雨の中を走っていく。
一人残された大学生の私は彼の後ろ姿が見えなくなると、雨音に紛れるように声を上げて泣いていた。
(忘れてたけど……これは私の思い出だ……)
そう、確信したときだった。
身体がピクッとと跳ねて、私の意識が不思議な力で引き戻される。
「……あれ……」
目の前は喫茶店の中で、手元のコーヒーは僅かに冷めている。
(今の……何……?)
うたた寝したわけでもなく妄想でもない。
すごくリアリティのある映画を見ていたような、何ともいえない感覚だった。
「また……会えたらか」
どうして忘れてしまっていたんだろうか。
いや、忘れていたのではない。
諦めていたからだ。
『また』会えるなんてことはない。
二度と私と俊輔の道が交わることなんてないと……。
──カランッ
ふいに木製の扉が開いてドアベルの音が鳴り響く。
無意識に振り返った私は、息を呑んだ。
見慣れないスーツ姿だが、見間違える訳がない。
驚いたのは相手も同じだったのだろう。覚えがある、二重の目をまんまるにしている。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
雨宮さんの澄んだ声が響く。
「えっと……コーヒーをブラックでお願いします」
「承知致しました」
さっと注文を終えた彼はハンカチで雨粒を拭いながら、ゆっくりと私の方へと向かってくる。
「……あの……」
「は、はい……」
返事をしたものの、私は言葉が続かない。
「えっとー……早紀、だよね」
「うん。そう、だよ……」
三年ぶりの再会に互いにぎこちなくなってしまう。
「……久し、ぶり」
「うん、久しぶり、だね」
おうむ返しをすれば、俊輔と一瞬、目があって顔が紅潮するのがわかる。
(どうしよう……)
その時──マメが急に起き上がると、うんと伸びをする。
そして、まるで俊輔に席を譲るように雨宮さんの元へと戻っていく。
俊輔が私の向かいの席を指差した。
「ここ、いい?」
「うん。もちろん」
外はまだ雨が降っていて、雨音が静かに聞こえてくる。
この雨が止むまで彼と一緒にコーヒーを飲み、積もる話がしたい。
過去のこと。
今までのこと。
そして二人のこれからのこと。
全てをありのままの言葉で伝えたい。
三年前──雨宿りをした、あの日の約束が果たせるように。
※※
「雨宮さん、ありがとうございました」
早紀と呼ばれていた女性が俺とマメに手を振り、スーツ姿の男性が彼女をエスコートするようにドアノブに手をかける。
「よい雨上がりを」
俺がそう言えば、若い男女は互いに微笑み合いながら、カランとドアベルを鳴らし店をあとにした。
俺は膝に丸くなっているマメを抱き上げると、窓辺に立った。
「……初恋の思い出か……」
さっきまであんなに降り注いでいた雨は上がり、星が小さく輝いている。
この喫茶店『おもひで』は俺が三年前に祖父から引き継いだ店だ。
生前、祖父は雨の日だけこの店を開けていた。
そして営業時間は《《雨におまかせ》》とのだった。
──『海、この店には初恋の思い出を甦らせる不思議な魔法があるんだ』
当時、高校生だった俺は祖父の話を適当に流していたが、その時の祖父が皺皺の顔をよりくしゃっとさせた笑顔がとても印象的だった。
「魔法ね……」
始めはもちろん信じていなかった。
しかし祖父が病気でこの世を去ったとき、俺はある理由からこの喫茶店を引き継いだ。
「いつになったら……雨宿りしにくるんだろうな」
ボソリと呟いた言葉にマメが呑気にニャーンと鳴く。
(……会いたい)
──『海ー! はやくー!』
俺の脳裏に浮かぶのは艶のある黒髪を揺らし、大きな瞳で俺を見つめ、いたずらっ子のような微笑みを浮かべて俺の名を呼ぶ、一人の女。
──『また会えたら……話すから……』
そう言い残して俺の前から突然、姿を消した初恋で最愛の人。
だから雨の日になると、俺はここで待っている。
雨宿りをしているその人が、彼女である日がくるまで、ずっと──。
「……さぁ、マメ。ご飯にしようか?」
それを聞いた現金なマメは、俺の腕からぴょんと飛び降りると、すぐにカウンターに置いてあるご飯置き場に向かって一目散だ。
「本日の雨営業は終了だな」
俺はふっと笑うと、店の看板を『close』にしてからマメの待つカウンターへ向かった。
2025.6.24 遊野煌
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