通信室の壁が、急にカラフルになった。
 整然と並んだモニターの横に、A4の紙が何枚も貼り出されていたのだ。
 「えーっと……これが音響ドローンの深度データでしょ、こっちは風向きと潮流、あとこれが地磁気……」
 その紙の山に囲まれて、黙々と作業しているのは千紘だった。
 ポニーテールにした髪が後ろで左右に跳ね、口元はずっと動いている。
 独り言というより、自分のテンポで世界を回しているような、そんな軽やかさだった。

 「よしっ、これで準備完了!」
 千紘は手を叩くと、通信室のスピーカーを起動した。
 「えー、皆さま、お忙しい中すみません! 通信室よりお知らせでーす!」
 甲板とブリッジ、観測室にもその声が届く。
 「本日午前の観測成果をまとめた“船内グラフ展覧会”を、通信室で開催中です!
  皆さんのデータがどれだけ凄いか、可視化して貼り出しましたー!」

 少しして、ぽつぽつと人が集まりはじめた。
 最初に来たのは陽斗、続いて実咲と健司、さらににこ、沙也加、そして奏太。
 「……なにこれ、すごいカラフル」
 「俺のグラフ、ちょっと盛ってない?」
 「いや逆に、こんなきれいに見えると成果っぽいな……」
 わいわいと笑い声が生まれ、誰かが「自分のはどこ?」と壁に近づく。
 そして、次々に自分の成果を見つけては、思わず笑ってしまう。
 「え、これ私の気象入力の? すごい、見やすい……!」
 「わたしの測定、思ったより貢献してたんだ……」

 千紘は、にこに言う。
 「みんな、“すごい”って言われ慣れてないだけなんだよ。
  一緒にやってるって分かると、誰かの成果が“自分ごと”に変わるから」
 にこは小さく笑った。
 「千紘さんって……褒めの達人ですね」
 「でしょー? 自分のこと褒められるより、誰かの成果を見て“わあ”ってなる方が、幸せなんだよね!」

 奏太は、その様子を少し離れて見つめていた。
 彼女の笑顔が、船全体の空気を変えていく様子に、どこか温かさを覚える。
 「……共有って、データじゃなくて、気持ちの話なんだな」
 自分が数式で捉えようとしてきた“共鳴”という概念が、
 千紘の笑顔一つで、こんなにも直感的に広がることに驚かされていた。

 「千紘、これ──俺のも入ってるのか?」
 そう尋ねたのは永遠だった。
 やや気恥ずかしそうに、自分の測定データが壁に貼られているのを見つけたらしい。
 「もちろん! 測定開始の正確さも、データノイズの少なさも、すっごく綺麗だったよ!」
 千紘が満面の笑みで言うと、永遠はむっとした顔をしながらも、耳のあたりが赤くなっていた。
 「べ、別にそんなの……褒められたって、俺は……」
 「うんうん、そう言いながら内心うれしいタイプだと思ってた! 当たってたー!」
 千紘の天真爛漫な言葉に、誰かが吹き出し、場の空気がさらに和らぐ。

 千紘は、ふと思った。
 “すごい”って言葉は、数値より重いときがある。
 それは、船内の誰もが、自分が何かの役に立っていると実感するための魔法みたいなもの。

 夜が近づき、展示されたグラフの前に数人が残っていた。
 ふと、健司がぼそりと漏らす。
 「こういう雰囲気、どのチームより理想的だな。安心と自信のバランスが、きれいに取れてる」
 「千紘さんの“分け合い力”の勝利ですね」と、にこが続ける。
 「……なんか、こうしてみると、“船”って家みたいだね」
 誰かがぽつりと言ったその言葉に、全員が少しだけ黙った。
 そして、ふっと微笑む。

 通信室の壁のデータたちは、静かに照明を反射していた。
 だが、そこに映っていたのは“数値”ではなく、“一人一人の努力の輪郭”だった。

 データが数字を超えたとき、人は初めて、共に進んでいると実感できる。
 それを誰よりも先に知っていたのが、千紘だった。

(第9章 完)