観測データログに、微かな軌跡が追加される。
 マストの最上部、海風にさらされるその場所に、マリアの姿があった。
 風防付きのタブレットを操作しながら、彼女は視線を空へ向ける。
 「――進行良好。風速、誤差範囲内。気圧、安定」
 低く、確実な声。
 彼女は通信ヘッドセットに向かって淡々と状況を報告していたが、誰かからの返答を待つ様子はない。
 なぜなら、そのドローン飛行は彼女の“自主的提案”によるものであり、船の正式な計画には組み込まれていなかったからだ。

 マリア・エストレマ。
 中南米系の血を引く、無人探査と航空観測の専門家。
 名簿には“特別協力観測員”と記載されているが、ほとんどの任務は単独で完遂される。
 “チームで動くより、自分でやったほうが早い”という合理的な信条を貫く彼女にとって、
 団体行動は時間の浪費でしかなかった。

 だがその日、彼女は違っていた。
 ドローンが上空五百メートルの高度から捉えた画像データを、そのまま通信室へ転送する設定にしていた。
 つまり──“自分以外の人間にも、見えるようにしていた”。
 送信ログの先には、複数の端末ID。
 航海士、気象担当、地図班、そして文化記録チーム──全員に、同時転送。

 「……必要だから。特別なことじゃない」
 自分にそう言い聞かせるように、マリアは呟いた。
 だが、本当にそうだろうか?
 それなら、わざわざ“共有する”という操作を自らの手で加える必要はなかったはずだ。

 そのとき、ヘッドセットから声が割り込んだ。
 「エストレマさん、こちら通信室の千紘です! 映像、すごいです!
  島の北西側、断崖の陰に人工構造物らしきパターンが……!」
 声は明るく、興奮を含んでいた。
 マリアは軽く眉をひそめた。
 それは、自分が予想していた以上の反応だったから。

 「構造物……あるいはただの侵食地形。でも、そこに何かがあると“見た”人間が増えれば……意味が変わる」
 マリアは、風に翻る自分の髪を無造作に手で押さえながら、小さく呟く。
 共有するということは、“複数の目で物事を見ることを許す”ということ。

 マリアは、静かにタブレットを閉じた。
 それは作業の終了を意味しながらも、どこか“自分の中の線を一つ越えた”ような感覚でもあった。
 観測データは船内ネットワークに保存され、誰でも閲覧可能となっている。
 “自分だけの発見”が、“誰かと共有される発見”になった瞬間だった。

 マストから下りて甲板に立つと、千紘が駆け寄ってきた。
 「マリアさん! ほんとすごい、あの画像、解像度まで完璧で……!
  あんな高度からでもここまで撮れるんですね。鳥肌立ちました」
 千紘は、見たままの感情をそのまま言葉にするタイプだった。
 誇張も演出もない、ただの“まっすぐな驚き”。
 マリアは、少し戸惑いながらも、静かに頷いた。
 「……機械が正確なだけ。私は、ただ操作しただけ」
 「それでも、私たちはあなたに助けられました。ありがとうございます」
 ありがとう。
 その言葉を、彼女は久しく他人から直接受け取っていなかった。

 「……わかりました。次回以降の飛行予定も、共有にします」
 それは、誰に求められたわけでもない宣言だった。
 千紘は目を丸くし、すぐに破顔する。
 「やったー! マリアさん、チームに“入った”って感じします!」

 “入った”という言葉に、マリアは一瞬だけ息を止めた。
 ──私は、チームの一員なのか?
 ──誰とも交わらず、ただの観測者としている方が、きっと楽だったのに。
 けれどそのとき、彼女は確かに“選んだ”のだった。
 誰かと情報を分け合い、同じ地図を覗き込む未来を。

 空は徐々に曇り始めていた。
 島は、まだ遥か彼方に霞んでいる。
 だがその日の航海ログには、“孤高の観測者が発した最初の共有データ”という文字が、
 確かに刻まれていた。

(第8章 完)