作戦室の机上に、光沢のある世界地図が広げられていた。
 周囲に集まった数人の乗員たちは、各自の役割に従ってルートと時間を確認していたが、
 その中心に立つ男の姿に、思わず目を留めずにはいられなかった。
 背は高く、体格もがっしりしているが、動きは静かで丁寧だった。
 濃い金髪を後ろで結び、襟元からは控えめな民族模様の刺繍が覗いている。
 「……This line, if adjusted 2 degrees northwest, we gain cloud cover protection during 14:00 solar peak. Agree?」
 誰かが一瞬、困ったように眉をひそめるが、その前に男はすっと言い換えた。
 「失礼。えっと……“この線、2度だけ北西にずらすと、午後の強日射を避けられる”。そう言いました」
 流暢な日本語に、場が少し緩んだ。
 「おお、うまいな!」「発音、ほとんど違和感ないですよ」
 そう褒められても、男は謙虚に微笑むだけだった。

 彼の名は、ライラン・ヴァレク。
 出身国は非公開だが、複数国の政府研究船と信頼契約を持つ海洋観測士。
 今回の《ヴァリアント》航海にも、国際的な中立観測者という立場で招かれていた。
 「信用は、契約よりも先に存在するもの。
  もし逆ならば、それはもう“契約”じゃなく、“縛り”になるからね」
 彼がふと口にしたその言葉に、場の空気が静まり返った。
 それは理屈ではない。誰かの心に静かに刺さる、誠実の温度だった。

 そのとき、奏太が部屋に入ってきた。
 手には、先ほど受け取った修正後の海図。
 「……ああ、君が水嶋奏太さん」
 ライランはすぐに名簿を確認し、深く一礼する。
 「君の父親──水嶋陸博士には、過去にうちの観測機構がずいぶん助けられました。
  彼が提唱した“記憶の反射構造”理論……当時は信じる者が少なかったけど、私は読んだ」
 奏太は、不意を突かれたように言葉を詰まらせる。
 「読んだ……? 日本語の論文ですよ? 難解な比喩ばかりで……」
 「だからこそ、“それを誠実に翻訳しようとする時間”をかけた。
  君の父は、論理よりも信頼を先に書く人だったからね」

 奏太は、胸のどこかに、ほんの少しあたたかい痛みを覚えた。
 父の言葉が、海を越えて誰かに届いていた。
 しかも、それを“理屈ではなく、信頼の書”として受け取った人間が、目の前にいる。

 「それにしても……」
 ライランは地図に視線を戻し、指先で航路をなぞった。
 「この島に向かうということは、自分自身の記憶に触れる覚悟がいる。
  “自分だけの地図”を、他人の前に晒すようなものだから」
 その言葉に、にこが反応した。
 「自分だけの地図、ですか?」
 「ええ。人はみな、歩んできた時間と感情でできた“地図”を持っている。
  でもそれを、誰かに見せるのは勇気がいる」
 「……でも、そうしないと一緒に進めないときもありますよね」
 にこの声は小さいが、まっすぐだった。
 ライランは、やや驚いたように目を細め、そして頷いた。
 「その通り。“見せる覚悟”は、信頼の始まりだから」

 会議室の空気は、不思議と穏やかだった。
 異なる国、異なる背景、異なる価値観。
 それでも、言葉と態度の誠実さは通じ合う。
 にこがそっと呟く。
 「……なんだか、初めてこの船に“大人”が乗ってるって感じがしました」
 その声は、冗談めかしていたが、どこか安心したようでもあった。
 ライランは照れくさそうに笑いながら、軽く肩を竦めた。
 「年齢は関係ない。ただ、誰かに信じてもらえる努力をしたいだけです」

 その夜、彼が提出した気象資料はすべて二ヶ国語併記だった。
 一つの地図を、複数の言語で読む努力。
 それはまさに、玻璃の島という“多言語の記憶迷宮”に踏み込む者たちにとって、最初の試験だったのかもしれない。

(第7章 完)