研究室の窓辺に、小さな標本ケースが置かれていた。中には、虹色にかすかに光るガラス片――あの島から持ち帰った唯一の“遺物”が収まっている。
 奏太は、ふと手を止め、その欠片に目を落とした。
 朝の日差しが斜めに差し込むと、光の屈折で壁にかすかな虹の影が踊った。
 「……ほんとに、幻じゃなかったんだな」
 ひとりごちた声は、誰にも聞かれていない。それでも、奏太の声には確かな輪郭があった。
 父が遺した航海記録。にこが残した正直な航海日誌。仲間たちがそれぞれ持ち帰った記憶。
 誰もがあの島で、自分と向き合い、他者と交わり、そして選んだ。
 「後悔は、消えない。でも、それでいいんだ」
 奏太は、机の前に戻って座ると、ノートを広げた。
 タイトルを書き込む――《玻璃の孤島に響く協奏》。
 その下に、迷わず書いた言葉があった。
 《第一章:沖の招待状》
 「最初から書き直すよ。ちゃんと、自分の言葉で」
 声にしてみると、意外なほど力がこもっていた。
 かつて“正しさ”を求めすぎて、自分を追い詰めた時間。
 あの島は、それさえも“映してくれた”。
 それが、今ここで再び始まる物語の礎になる。
 机の上で、虹色の欠片がひときわ強く輝いた。
 まるで、未来を肯定するように。
 まるで、どんな後悔にも意味があると、証明するように。
 そして――奏太は、筆を走らせた。
 “後悔を恐れず進む”
 それが彼の、新しい航海の第一歩だった。
 外では、春が過ぎ去ろうとしていた。
 新しい季節、新しい自分。
 玻璃の島はもうどこにもない。けれど、奏太の中には、確かに残っていた。
 音もなく、風が研究室の窓を揺らす。
 その風に、虹の欠片が、わずかに震えた。