航海五日目、午前八時。
《ヴァリアント》は定点観測エリアを越え、進路の再調整を行うタイミングに差しかかっていた。
そのブリッジ──艦橋の観測モニター前に、一人の女性が立っていた。
彼女の名は、綿貫沙也加。
海洋気象モデルと進路最適化システムの管理担当。
長い黒髪を後ろで一つに結い、無地のブラウスとスラックス。
飾り気のない身なりにもかかわらず、どこか“沈着な意志”のようなものが滲んでいた。
「……本日午後以降、東方海域に高波注意域が発生する可能性があります。
数値モデルの予測誤差は1.2%。避けるなら、進路を西側に寄せるべきかと」
彼女が示したルート変更案に、周囲のオペレータが一斉に端末を確認する。
「でも、西回りって……航程が約2時間遅れますよね?」
「先の観測ポイント、陽が落ちる前に到着したいんだけどな」
船員の一人が不安げにそう口にすると、沙也加は少しだけ口元に力を込めた。
「効率的には“行くべき”です。でも、正確には“行かないほうが合理的”です」
「ん? どういう意味?」
「ここから先の2時間を節約しても、その先で波浪に巻き込まれて進路が乱れる確率のほうが高い。
結果的には、予定より長くなり、リスクも増えます」
数字で語られるその指摘に、一瞬、ブリッジの空気が静まり返る。
控えめに、だが譲らず──彼女は理屈の上で立っていた。
誰かの機嫌や感情ではなく、“事実”を根拠に言葉を発していた。
「……確かに、そうか」
やがて、操舵責任者が唸るように言い、モニターに手を伸ばす。
「西寄りに進路修正。綿貫の提案、採用する」
その一言で場が動いた。
だが、沙也加は決して誇らしげな顔をしなかった。
むしろ、自分が目立ってしまったことにどこか戸惑いを覚えているようだった。
彼女は心の中で、自問していた。
論理は、人を納得させる。だが、納得させたときに人が黙るのは……本当に理解されたからだろうか?
進路変更が決まった後、沙也加はブリッジを離れて観測記録室に戻った。
窓のない小さな部屋。そこは、彼女にとって居心地のよい“数字の静寂”が支配する場所だった。
機器のログを確認しながら、彼女はそっと息を吐く。
「……また、嫌な空気になってないといいけど」
予測は当たっていた。それが良いことなのは確かだ。
だが、効率より安全を優先したその選択が、“無難な判断”として処理されてしまうことに、微かな不満が残る。
「綿貫さん」
声がして、扉の方を向くと、そこにはにこが立っていた。
「さっき、進路修正の提案……ありがとうございます。私、正直ホッとしました」
「……え?」
にこは照れくさそうに笑う。
「ずっと不安だったんです。数日前から、波の音が荒くなってきた気がしてて。
でもそれって“感覚”でしかなくて、誰にも言えなかったから……」
沙也加は、返事の言葉を一瞬だけ探してから、小さく微笑んだ。
「そういう感覚、大事にしたほうがいいと思います。
私の“正しさ”は数字から来てるけど、あなたのそれも、きっと同じくらい確かです」
二人の間に、静かな共感の気配が流れる。
沙也加は、数字だけでは伝えられない“人の言葉”を受け取った気がした。
そして少しだけ、自分の論理が“誰かの安心に繋がった”ことに、胸が温かくなる。
船はゆっくりと西へ舵を切る。
その向こう、海原にはまだ見ぬ島が、遠い記憶のように眠っている。
沙也加が守った2時間の回り道は、後に彼女自身の選択を救う布石となる。
(第6章 完)
《ヴァリアント》は定点観測エリアを越え、進路の再調整を行うタイミングに差しかかっていた。
そのブリッジ──艦橋の観測モニター前に、一人の女性が立っていた。
彼女の名は、綿貫沙也加。
海洋気象モデルと進路最適化システムの管理担当。
長い黒髪を後ろで一つに結い、無地のブラウスとスラックス。
飾り気のない身なりにもかかわらず、どこか“沈着な意志”のようなものが滲んでいた。
「……本日午後以降、東方海域に高波注意域が発生する可能性があります。
数値モデルの予測誤差は1.2%。避けるなら、進路を西側に寄せるべきかと」
彼女が示したルート変更案に、周囲のオペレータが一斉に端末を確認する。
「でも、西回りって……航程が約2時間遅れますよね?」
「先の観測ポイント、陽が落ちる前に到着したいんだけどな」
船員の一人が不安げにそう口にすると、沙也加は少しだけ口元に力を込めた。
「効率的には“行くべき”です。でも、正確には“行かないほうが合理的”です」
「ん? どういう意味?」
「ここから先の2時間を節約しても、その先で波浪に巻き込まれて進路が乱れる確率のほうが高い。
結果的には、予定より長くなり、リスクも増えます」
数字で語られるその指摘に、一瞬、ブリッジの空気が静まり返る。
控えめに、だが譲らず──彼女は理屈の上で立っていた。
誰かの機嫌や感情ではなく、“事実”を根拠に言葉を発していた。
「……確かに、そうか」
やがて、操舵責任者が唸るように言い、モニターに手を伸ばす。
「西寄りに進路修正。綿貫の提案、採用する」
その一言で場が動いた。
だが、沙也加は決して誇らしげな顔をしなかった。
むしろ、自分が目立ってしまったことにどこか戸惑いを覚えているようだった。
彼女は心の中で、自問していた。
論理は、人を納得させる。だが、納得させたときに人が黙るのは……本当に理解されたからだろうか?
進路変更が決まった後、沙也加はブリッジを離れて観測記録室に戻った。
窓のない小さな部屋。そこは、彼女にとって居心地のよい“数字の静寂”が支配する場所だった。
機器のログを確認しながら、彼女はそっと息を吐く。
「……また、嫌な空気になってないといいけど」
予測は当たっていた。それが良いことなのは確かだ。
だが、効率より安全を優先したその選択が、“無難な判断”として処理されてしまうことに、微かな不満が残る。
「綿貫さん」
声がして、扉の方を向くと、そこにはにこが立っていた。
「さっき、進路修正の提案……ありがとうございます。私、正直ホッとしました」
「……え?」
にこは照れくさそうに笑う。
「ずっと不安だったんです。数日前から、波の音が荒くなってきた気がしてて。
でもそれって“感覚”でしかなくて、誰にも言えなかったから……」
沙也加は、返事の言葉を一瞬だけ探してから、小さく微笑んだ。
「そういう感覚、大事にしたほうがいいと思います。
私の“正しさ”は数字から来てるけど、あなたのそれも、きっと同じくらい確かです」
二人の間に、静かな共感の気配が流れる。
沙也加は、数字だけでは伝えられない“人の言葉”を受け取った気がした。
そして少しだけ、自分の論理が“誰かの安心に繋がった”ことに、胸が温かくなる。
船はゆっくりと西へ舵を切る。
その向こう、海原にはまだ見ぬ島が、遠い記憶のように眠っている。
沙也加が守った2時間の回り道は、後に彼女自身の選択を救う布石となる。
(第6章 完)



