六月の陽は、柔らかく射していた。
風が静かに吹き抜ける港の片隅にある、小さな事務棟。
その一角に設けられた研究室の片隅で、奏太は録音機のスイッチを押した。
「録音開始、えっと……父さんへ」
彼は一度深く息を吐いた。机上には、白紙のノートと、あの島で拾った玻璃の欠片が並んでいる。虹色にかすかに光るそれは、誰にも説明できないはずの現象だった。
「本当は、ノートもデータも、何も持ち帰れなかった。島の構造も、群体生物としての存在証明も、今じゃただの与太話にしか見えないかもしれない」
机の下、足元で揺れる緊張に膝を押さえながら、奏太は言葉を続ける。
「でも……俺は、見た。あの島で、人の後悔が、記憶が、共鳴して、生きていた。
それは、父さんの仮説どおりだった。感情のエネルギーが物質を媒介して作用する――その証拠だったんだ」
録音機の赤いランプが瞬いている。奏太は視線を外して、遠くの空を見た。
港にはいつもの喧騒が戻っていたが、彼の中にある時間だけは、確かに別の速度で進んでいる。
「俺、途中で何度も逃げたくなったよ。
父さんのためって言いながら、結局、自分が証明者になれることが怖かった。
間違ってたら、父さんの人生そのものを否定することになるかもしれなかったから」
彼はそっと、玻璃の欠片を指でなぞる。
触れると、ほんのりと温かく感じた。それは錯覚かもしれない。けれど、奏太にとっては確かな感触だった。
「でもね……父さん。俺たちは皆、自分の“後悔”と向き合ってきた。
他人を傷つけたこと、助けられなかったこと、自分を偽ったこと、逃げたこと――全部、映された。
それを、仲間と一緒に認めて、受け容れて、踏み出すってことが、こんなに……清々しいことなんだって、初めて知ったんだ」
手が、ほんのわずかに震えているのを感じながら、奏太は言葉を紡ぐ。
「研究結果を論文にすることは、たぶん、できない。
でも、俺たちの旅そのものが、なにより確かな“証明”だったと思うんだ。
父さんが信じた未来は、間違ってなかった。俺は……そう、胸を張って言える」
奏太は、録音機の前で一度まぶたを閉じた。
声が、喉の奥から湧き上がるのを待っていた。
「――だから、ありがとう、父さん。
俺に、あの島へ行く動機をくれて。
迷って、苦しんで、でも、選ぶことの意味を教えてくれた」
思い出すのは、研究室の奥で何度も咳き込んでいた父の背。
けれど、振り返ったその眼差しには、いつも一片の曇りもなかった。
信じ抜く、ということを教えてくれた人だった。
「俺も、これから先の人生を使って、問い続けるよ。
“人の記憶は、どこへ向かうのか”って。
あの島がくれた問いは、まだ終わってないから」
ふと、背後の窓が風に揺れた。
風鈴が鳴ったのかと思ったが、ただガラスが小さく軋んだだけだった。
奏太は、机の上のノートにそっと指を添える。
「データや数値がなくても、俺たちは生きて証明した。
感情ってやつが、人を動かすってことを。
そして、それを分かち合うことで、人は前へ進めるってことを」
ゆっくりと指を離すと、玻璃の欠片がわずかにきらめいた。
それは、まるで――島が「聞いている」と応えているようだった。
奏太は、静かに録音を止めた。
そして、録音機を小さな封筒に入れた。宛名も何も書かれていない封筒。
それを、研究室のロッカーの一番奥にしまい込んだ。
届け先のない手紙でも、きっと、どこかに届く。
そう信じるには、もう十分すぎるほどの時間を、島で過ごしてきた。
外に出ると、陽射しがまぶしかった。
奏太は顔をしかめて、ふっと笑った。
「よし。……次は、俺の番だ」
父の背を追うのではない、自分自身の歩幅で。
ガラスのかけらは、ポケットの中で温かさを宿していた。
風が彼の髪を揺らし、港の先に光の波紋が広がっていた。
――それは、新たな旅の始まりを告げる、静かな鐘の音だった。
風が静かに吹き抜ける港の片隅にある、小さな事務棟。
その一角に設けられた研究室の片隅で、奏太は録音機のスイッチを押した。
「録音開始、えっと……父さんへ」
彼は一度深く息を吐いた。机上には、白紙のノートと、あの島で拾った玻璃の欠片が並んでいる。虹色にかすかに光るそれは、誰にも説明できないはずの現象だった。
「本当は、ノートもデータも、何も持ち帰れなかった。島の構造も、群体生物としての存在証明も、今じゃただの与太話にしか見えないかもしれない」
机の下、足元で揺れる緊張に膝を押さえながら、奏太は言葉を続ける。
「でも……俺は、見た。あの島で、人の後悔が、記憶が、共鳴して、生きていた。
それは、父さんの仮説どおりだった。感情のエネルギーが物質を媒介して作用する――その証拠だったんだ」
録音機の赤いランプが瞬いている。奏太は視線を外して、遠くの空を見た。
港にはいつもの喧騒が戻っていたが、彼の中にある時間だけは、確かに別の速度で進んでいる。
「俺、途中で何度も逃げたくなったよ。
父さんのためって言いながら、結局、自分が証明者になれることが怖かった。
間違ってたら、父さんの人生そのものを否定することになるかもしれなかったから」
彼はそっと、玻璃の欠片を指でなぞる。
触れると、ほんのりと温かく感じた。それは錯覚かもしれない。けれど、奏太にとっては確かな感触だった。
「でもね……父さん。俺たちは皆、自分の“後悔”と向き合ってきた。
他人を傷つけたこと、助けられなかったこと、自分を偽ったこと、逃げたこと――全部、映された。
それを、仲間と一緒に認めて、受け容れて、踏み出すってことが、こんなに……清々しいことなんだって、初めて知ったんだ」
手が、ほんのわずかに震えているのを感じながら、奏太は言葉を紡ぐ。
「研究結果を論文にすることは、たぶん、できない。
でも、俺たちの旅そのものが、なにより確かな“証明”だったと思うんだ。
父さんが信じた未来は、間違ってなかった。俺は……そう、胸を張って言える」
奏太は、録音機の前で一度まぶたを閉じた。
声が、喉の奥から湧き上がるのを待っていた。
「――だから、ありがとう、父さん。
俺に、あの島へ行く動機をくれて。
迷って、苦しんで、でも、選ぶことの意味を教えてくれた」
思い出すのは、研究室の奥で何度も咳き込んでいた父の背。
けれど、振り返ったその眼差しには、いつも一片の曇りもなかった。
信じ抜く、ということを教えてくれた人だった。
「俺も、これから先の人生を使って、問い続けるよ。
“人の記憶は、どこへ向かうのか”って。
あの島がくれた問いは、まだ終わってないから」
ふと、背後の窓が風に揺れた。
風鈴が鳴ったのかと思ったが、ただガラスが小さく軋んだだけだった。
奏太は、机の上のノートにそっと指を添える。
「データや数値がなくても、俺たちは生きて証明した。
感情ってやつが、人を動かすってことを。
そして、それを分かち合うことで、人は前へ進めるってことを」
ゆっくりと指を離すと、玻璃の欠片がわずかにきらめいた。
それは、まるで――島が「聞いている」と応えているようだった。
奏太は、静かに録音を止めた。
そして、録音機を小さな封筒に入れた。宛名も何も書かれていない封筒。
それを、研究室のロッカーの一番奥にしまい込んだ。
届け先のない手紙でも、きっと、どこかに届く。
そう信じるには、もう十分すぎるほどの時間を、島で過ごしてきた。
外に出ると、陽射しがまぶしかった。
奏太は顔をしかめて、ふっと笑った。
「よし。……次は、俺の番だ」
父の背を追うのではない、自分自身の歩幅で。
ガラスのかけらは、ポケットの中で温かさを宿していた。
風が彼の髪を揺らし、港の先に光の波紋が広がっていた。
――それは、新たな旅の始まりを告げる、静かな鐘の音だった。



