離脱筏の推進音が、海上を滑るように響く。
 陽斗と誠が操縦と航路確認を交代しつつ、残った面々はほとんど疲れ果てていた。けれど、視線の先──誰もが“ある一点”を気にしていた。
 ──ライランが、まだ戻ってこない。
 「彼、何してるの?」
 実咲が不安げに問いかけた。
 「戻るつもりが、ないんじゃないか?」
 宗一郎の声はいつになく低く、真剣だった。

 時を戻す。
 透明な球体──共鳴の中核が、振動を増していく。
 ライランはその中心制御台に立ち、装置の動作ログを冷静に分析していた。
 「放出エネルギーの余剰値が……想定値の12倍。これは、間に合わない」
 彼はタブレットを落ち着いて床に置き、マニュアルスイッチへと指をかけた。

 《崩壊遅延装置》──一度起動すれば、30分間だけ島の収束速度を遅らせる。
 だが、それは島の“心臓”に命を結びつけるということでもあった。
 起動後、生きて脱出するには──誰かが回路を切断し、解除しなければならない。
 その瞬間、内部にいる人間の意識は、二度と戻らない。

 ライランは静かにスイッチを押した。
 「……これは、片道切符だ」

 * * *
 マリアの瞳が見開かれる。
 「ライランが……スイッチを入れた……!?」
 彼女は操縦席を飛び出し、身を翻すと、海風を切って筏の後方へと向かった。
 「どこへ行くの!?」
 にこの声が届くより早く、マリアの声が響く。
 「迎えに行く!」
 即答だった。迷いもなければ、ためらいもなかった。

 「マリアさん!」
 陽斗が呼びかけるが、彼女はすでに搭載されていた一人用ドローンカヌーに乗り込んでいた。
 電源が入ると同時に推進ユニットが点火され、マリアの姿は波の向こうへ消えていった。

 マリアのドローン艇が、波を切りながら島へ戻る。
 残された筏の上、誰もがその背中を見つめて言葉を失っていた。

 「やりすぎだ……!」
 永遠が唇を噛みしめる。
 「でも、彼女しかできないことがあるんだろう」
 沙也加が静かに呟いたその声には、揺るぎない確信があった。

 そのころ、ライランは装置の基板にアクセスしていた。
 「記録回線……完了。観測データ、全転送。これで、島の記憶は……未来に届く」
 最後のスイッチを押すと、彼は目を閉じた。
 「さようなら。僕の人生はここで終わる。……でも、誰かの“出会い”になるなら──」

 「うるさい!」
 その言葉を遮るように、甲高い声が響いた。
 「終わらせないって言ったでしょ!」
 マリアの姿が、扉を破って飛び込んできた。
 「マリア……!?」
 「そんな顔しないで。私はあんたの“人間関係を広げるのが得意”なパートナーでしょ」

 ライランが押した起動装置に、マリアが飛びつく。
 手慣れた操作で一部の制御を奪い、応急コードを打ち込む。
 「ちょっとだけ無茶するよ。いいでしょ?」
 「……あなたはいつも、そうだ」
 ライランが微笑む。
 ──たしかに、いつも彼女は予定を越えてくる。

 爆音と共に、上空へ向けて緊急信号弾が打ち上がる。
 島がゆっくりと、でも確実に崩れ始める。
 その瞬間──
 「つかまって!」
 マリアが差し出した手を、ライランは強く握った。

 救命ドローンが発射され、二人の身体を包むように展開される。
 風圧、熱、閃光──すべてを越えて、二人は空中に跳ね上げられた。

 「間に合え……!」
 海上で待つ仲間たちが、虹の柱を見上げる。
 ──そして、空の一角から放物線を描いて降下してくる二つの影が見えた。

 「戻ってきた!」
 誰かが叫び、次の瞬間には全員が走り出していた。

 二人は波間に落ち、陽斗が飛び込んで手を伸ばす。
 ライランもマリアも、目を開け、微笑んだ。

 ──これが、二人で手に入れた帰り道。
 誰かの“帰る場所”を守るための、最後の切符だった。