その朝、空はあっけらかんと晴れていた。
伊豆沖。調査航路の途中で物資補給を兼ねた、わずか数時間の寄港。
《ヴァリアント》は本土から少し離れた漁村の波止場に停泊していた。
陽斗は、港の空気が好きだった。
潮と草木と炊きたての米が混じった、なんとも言えない香り。
それを胸いっぱい吸い込むと、心の重さが少し抜けるような気がした。
「……やっぱり、人のいる匂いって、落ち着くな」
調査船の上では、無機質な金属とオゾン臭、常に機械の振動音が付きまとう。
それはそれで安心ではあるが、どこか“生きている感じ”が希薄だった。
陽斗は、甲板から吊るされた縄梯子を降り、小さな補助艇に乗って港へ向かっていた。
目的は、地元の診療所から依頼された医療キットの受け渡し。
この寄港地には数人の診療スタッフがいて、調査船が通るたびに物資支援を求めていた。
「はーい、お兄さん! 船の人?」
岸に近づくと、浜辺に一人の少年が立っていた。
麦わら帽子に泥だらけのサンダル。
だが、屈託のない笑顔と、こちらに向けてブンブン振られる手が、なんとも真っ直ぐだった。
「君、名前は?」
「翔太! ここの漁師町でいちばん足速いの!」
誇らしげに胸を張る少年に、陽斗は笑みを返す。
「それはすごいな。もしかして、診療所の先生に会える場所、知ってたりする?」
「うん、ついてきて! 裏の坂、近道あるよ」
そう言って、少年は砂利道を蹴って走り出した。
まるで道しるべのように、背中で光をはね返しながら。
陽斗は少し遅れて、軽やかにその後を追った。
坂を登りきると、古びた木造の建物が見えてきた。
白い看板に「潮風診療所」と手書きで書かれている。
「ここだよー!」
翔太が無造作に扉を開けると、中から女性スタッフが顔を出した。
白衣の袖をまくった快活な中年女性。陽斗に気づくと、ぱっと表情が明るくなる。
「おお、あなたが《ヴァリアント》の方? ありがとう、助かるわ!」
「医療キット、ここに。点滴セットと抗生物質が中心です」
陽斗は慎重に包みを差し出す。
スタッフはその場で中身を確認し、何度もお礼を繰り返した。
「島の子たちは怪我が絶えなくて……あなたが運んできてくれるだけで、本当に助かるのよ」
翔太はというと、診療所の壁に貼られた手描きの地図を見ながら、陽斗の足元をちょこちょこと動いていた。
「お兄さんさ、なんでこんな仕事してるの?」
ふいに問われて、陽斗は少し言葉に詰まった。
「なんで……か。そうだなあ……」
少し考えてから、彼は笑った。
「人が笑ってる顔って、いいなって思ったからかな。
それだけで、やる意味あるなって思えたんだ」
「ふーん。変なの。でも、先生もよくそう言うよ」
翔太はそう言って、石ころを指で転がしながら続けた。
「怪我して泣いてた子が、帰りに笑ってるとき、先生、すごくうれしそうな顔するんだ」
陽斗はふと、過去の光景を思い出していた。
かつて、自分が助けられなかった小さな命。
無力さに打ちのめされた記憶は、いまも彼の心の奥に沈殿している。
だからこそ、こうして“届くもの”を届けられる現場に身を置くのだ。
「翔太くん、今日は案内ありがとう。先生にもよろしくね」
「うん!」
陽斗がポケットから取り出したのは、小さなラベルのついたチューブ。
「これは特別なやつ。転んだときのために、持ってていいよ」
「えっ、いいの?」
「うん。早く治して、また誰かを案内してあげて」
翔太の顔が、ぱぁっと明るくなった。
その笑顔を見て、陽斗もまた、心のどこかがふっと温まった気がした。
陽斗が補助艇に戻ると、もう船は出航準備を整えていた。
遠ざかる岸辺には、まだ翔太の姿があった。
両手をいっぱいに振って、小さな体で何度も跳ねている。
陽斗もそれに応えるように、手を大きく振った。
その一瞬だけ、波の向こうにいる誰かと心がつながった気がしていた。
甲板に戻ると、奏太が待っていた。
「子ども好きなんだな」と、やや意外そうに言う。
「うん。……でも、たぶん俺、自分のためにやってるんだと思う」
「自分の?」
「“誰かの役に立てた”って思いたくて、動いてるだけかもしれない。
優しくしてるんじゃなくて、優しくされたいんだよ。たぶん」
その言葉に、奏太はわずかに眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「それでも、結果的に誰かが助かってるなら、それでいいんじゃないか。
動機なんて、いつも後から整うものだよ」
陽斗はしばらく沈黙し、そして呟く。
「……あのとき、助けられなかったこと、ずっと悔やんでるんだ。
でも、それを自分でどうにかしようって、やっと思えるようになってきた。少しだけど」
それは、彼自身の“後悔”の入り口だった。
玻璃の島がそれをどう映すかは、まだ誰にもわからない。
だがその日、陽斗が見せた“誰かに手を差し伸べる強さ”は、確かに船の空気を和らげていた。
甲板に、午後の陽光が差し込む。
少しだけ高くなった空を見上げながら、陽斗は目を細めた。
その胸に、さっきの少年の声がまだ残っていた。
「変なの。でも、先生もよくそう言うよ」
そうだ。
変でもいい。誰かの記憶に残る優しさなら、それでいい。
(第5章 完)
伊豆沖。調査航路の途中で物資補給を兼ねた、わずか数時間の寄港。
《ヴァリアント》は本土から少し離れた漁村の波止場に停泊していた。
陽斗は、港の空気が好きだった。
潮と草木と炊きたての米が混じった、なんとも言えない香り。
それを胸いっぱい吸い込むと、心の重さが少し抜けるような気がした。
「……やっぱり、人のいる匂いって、落ち着くな」
調査船の上では、無機質な金属とオゾン臭、常に機械の振動音が付きまとう。
それはそれで安心ではあるが、どこか“生きている感じ”が希薄だった。
陽斗は、甲板から吊るされた縄梯子を降り、小さな補助艇に乗って港へ向かっていた。
目的は、地元の診療所から依頼された医療キットの受け渡し。
この寄港地には数人の診療スタッフがいて、調査船が通るたびに物資支援を求めていた。
「はーい、お兄さん! 船の人?」
岸に近づくと、浜辺に一人の少年が立っていた。
麦わら帽子に泥だらけのサンダル。
だが、屈託のない笑顔と、こちらに向けてブンブン振られる手が、なんとも真っ直ぐだった。
「君、名前は?」
「翔太! ここの漁師町でいちばん足速いの!」
誇らしげに胸を張る少年に、陽斗は笑みを返す。
「それはすごいな。もしかして、診療所の先生に会える場所、知ってたりする?」
「うん、ついてきて! 裏の坂、近道あるよ」
そう言って、少年は砂利道を蹴って走り出した。
まるで道しるべのように、背中で光をはね返しながら。
陽斗は少し遅れて、軽やかにその後を追った。
坂を登りきると、古びた木造の建物が見えてきた。
白い看板に「潮風診療所」と手書きで書かれている。
「ここだよー!」
翔太が無造作に扉を開けると、中から女性スタッフが顔を出した。
白衣の袖をまくった快活な中年女性。陽斗に気づくと、ぱっと表情が明るくなる。
「おお、あなたが《ヴァリアント》の方? ありがとう、助かるわ!」
「医療キット、ここに。点滴セットと抗生物質が中心です」
陽斗は慎重に包みを差し出す。
スタッフはその場で中身を確認し、何度もお礼を繰り返した。
「島の子たちは怪我が絶えなくて……あなたが運んできてくれるだけで、本当に助かるのよ」
翔太はというと、診療所の壁に貼られた手描きの地図を見ながら、陽斗の足元をちょこちょこと動いていた。
「お兄さんさ、なんでこんな仕事してるの?」
ふいに問われて、陽斗は少し言葉に詰まった。
「なんで……か。そうだなあ……」
少し考えてから、彼は笑った。
「人が笑ってる顔って、いいなって思ったからかな。
それだけで、やる意味あるなって思えたんだ」
「ふーん。変なの。でも、先生もよくそう言うよ」
翔太はそう言って、石ころを指で転がしながら続けた。
「怪我して泣いてた子が、帰りに笑ってるとき、先生、すごくうれしそうな顔するんだ」
陽斗はふと、過去の光景を思い出していた。
かつて、自分が助けられなかった小さな命。
無力さに打ちのめされた記憶は、いまも彼の心の奥に沈殿している。
だからこそ、こうして“届くもの”を届けられる現場に身を置くのだ。
「翔太くん、今日は案内ありがとう。先生にもよろしくね」
「うん!」
陽斗がポケットから取り出したのは、小さなラベルのついたチューブ。
「これは特別なやつ。転んだときのために、持ってていいよ」
「えっ、いいの?」
「うん。早く治して、また誰かを案内してあげて」
翔太の顔が、ぱぁっと明るくなった。
その笑顔を見て、陽斗もまた、心のどこかがふっと温まった気がした。
陽斗が補助艇に戻ると、もう船は出航準備を整えていた。
遠ざかる岸辺には、まだ翔太の姿があった。
両手をいっぱいに振って、小さな体で何度も跳ねている。
陽斗もそれに応えるように、手を大きく振った。
その一瞬だけ、波の向こうにいる誰かと心がつながった気がしていた。
甲板に戻ると、奏太が待っていた。
「子ども好きなんだな」と、やや意外そうに言う。
「うん。……でも、たぶん俺、自分のためにやってるんだと思う」
「自分の?」
「“誰かの役に立てた”って思いたくて、動いてるだけかもしれない。
優しくしてるんじゃなくて、優しくされたいんだよ。たぶん」
その言葉に、奏太はわずかに眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「それでも、結果的に誰かが助かってるなら、それでいいんじゃないか。
動機なんて、いつも後から整うものだよ」
陽斗はしばらく沈黙し、そして呟く。
「……あのとき、助けられなかったこと、ずっと悔やんでるんだ。
でも、それを自分でどうにかしようって、やっと思えるようになってきた。少しだけど」
それは、彼自身の“後悔”の入り口だった。
玻璃の島がそれをどう映すかは、まだ誰にもわからない。
だがその日、陽斗が見せた“誰かに手を差し伸べる強さ”は、確かに船の空気を和らげていた。
甲板に、午後の陽光が差し込む。
少しだけ高くなった空を見上げながら、陽斗は目を細めた。
その胸に、さっきの少年の声がまだ残っていた。
「変なの。でも、先生もよくそう言うよ」
そうだ。
変でもいい。誰かの記憶に残る優しさなら、それでいい。
(第5章 完)



