あの契約板が崩れ落ちたのは、まるで島自身が“決着を拒んだ”かのようだった。
 しかし、それは──予兆に過ぎなかった。

 迷宮の天井から、突然、音のない閃光が走る。
 次いで、床が波打つように歪み、壁面に映っていた映像たちが暴走を始めた。
 個別に現れていたはずの“後悔の映像”が、互いに混線し、重なり、膨張し──無差別に投影され始める。

 奏太の父が船上で手帳を握る姿に、永遠の弟の声がかぶさる。
 「お兄ちゃん、なんで置いてったの?」
 その背後で、実咲の過去の自室が重なり、沙也加の旧研究所がフロアに浮かび上がる。
 誰の記憶でもない、誰のものでもある“断片”が、空間全体に溢れ出した。

 「待て! これは……投影装置が暴走してる!」
 健司が演算卓を駆け寄って叩くも、端末はすでに制御不能。
 「共鳴が……収束しない。群体が、境界を失ってる!」

 そのとき、マリアが悲鳴を上げた。
 「見て……! 島全体が、呼吸してるみたいに、脈動してる!」
 映像越しに、ガラスのように透けた海面から、無数の記憶体の粒子が湧き出している。

 「このままじゃ、“後悔”が全世界に放たれる……!」
 ライランの声が、響いた。

 「こんな、終わり方──認めない……!」
 奏太が、光に包まれた回廊へと走り出した。
 彼の視線の先には──かつて父が描いた、未完の設計図にあった“緊急停止装置”の痕跡が、かすかに浮かんでいた。

 奏太は、あふれる映像の奔流の中を突き進んだ。
 天井に映るのは、彼が初めて父とケンカした日。
 床に走るのは、にこが「嘘がつけない」と泣いた夜の記憶。
 左右の壁は陽斗の祈り、美紗の叫び、宗一郎の笑い声で彩られ、足元さえも安定しない。

 だが、奏太の眼は迷わなかった。
 脳裏に焼き付いている設計図、父の研究ノートの一節。
 ――「暴走を止めるには、“共鳴の源”と人が繋がり、エネルギーを受け止める器になるしかない」
 ――「それは命を賭した、最も非合理な選択肢」

 「お父さん……あんた、本気で……こんな方法しか残さなかったのかよ……!」
 歯を食いしばり、奏太は膝をついた。
 その場所には、かすかに光る手形。
 まるで“ここに手を置け”とでも言うように、虹のような残光が漂っていた。

 背後から、にこの声がした。
 「奏太っ! 待って、それって……!」

 「止めるな」
 奏太は振り返らずに言った。
 「俺は……お前らを信じてない。いや、信じようとしてる自分が一番、信じられないんだ……
 でもな、それでも“この後悔”を、もう繰り返したくないんだよ」

 静かに手を伸ばす。
 光に包まれた制御装置の中心部へと。
 次の瞬間、装置が反応し、回廊全体が大きく振動した。
 “島の心臓”が、彼の存在を認識したのだ。

 「奏太ぁぁぁあ!!」
 にこの悲鳴と共に、周囲が白く染まっていった。

 光が去った後、奏太の体は──まだ、そこにあった。
 だが彼は、もう動かない。
 正確には、島と繋がり、後悔の共鳴を抑制する“中枢”として、意識の一部を捧げていた。

 「ダメだ……引き離せない……!」
 健司がコードを引こうとするが、白い紋様が奏太の腕に絡みついている。
 まるで彼自身が“装置の一部”と化したようだった。

 「にこ……」
 奏太が、かすかに言葉を絞り出す。
 「嘘でもいい……俺に、“大丈夫”って言ってくれないか」

 にこは、ぐしゃぐしゃに涙で濡れた顔で、震える唇を開いた。
 けれど──。
 「嘘じゃないよ。……絶対、大丈夫にする」
 それは、彼女なりの“本音”だった。

 その瞬間、共鳴の波がわずかに静まり、投影されていた映像が一つ、また一つと消えていった。
 仲間たちの視界に、ひときわ明るく輝く球体が現れる。
 それは、“群体生物の心核”。
 後悔のすべてを吸収していた、この島の本体だった。

 「次は、俺たちの番だ」
 ライランが前に出る。
 「一人の命を犠牲にさせるなんて……俺はそんな信頼、要らない」

 そして、にこも叫ぶ。
 「みんな、自分の“後悔”を言って! 一番、言いたくなかったことを!」
 それが、唯一の突破口だと、誰もが理解していた。
 ──奏太の命を、繋ぎとめるために。