夜の食堂は、妙にざわついていた。
《ヴァリアント》は出航から二日目。
初期航行における各部チェックがひと段落し、夕食を兼ねた“非公式歓迎会”が開かれている。
天井のLED照明が、ステンレスの食器に反射してやたら眩しい。
蒸気がたつスープ鍋の横で、数人の船員がプラスチックのグラスを手に乾杯の合図をしていた。
「いやー、このメニュー、いいっすね! 和風? 洋風? どっちなのか分かんないけど!」
「カレーに刺身を添えるセンスは……新しいよな」
和やかな笑い声。
だがその一角で、何やらひと悶着が起きようとしていた。
「ねぇ、これ……あたしの、じゃない?」
一人の女性が、テーブルの上に置かれた皿を指差していた。
声は穏やかだが、視線は鋭い。
彼女の名は、花岡実咲。
ふわりとウェーブのかかった長い髪、ピンクベージュのカーディガンを羽織った細身の体。
ただし、その表情は可憐というより、どこか“間違えたくない女”の空気を纏っていた。
「ごめんなさい、花岡さん。そのプレート、私が取っちゃったかも」
手を挙げたのは、通信担当の女性隊員だった。
皿には、味噌風スープと、酢漬けのサバが乗っている。事前に希望を出せた“和寄りメニュー”だ。
「え、でも……私が選んだの、洋食のはず……」
実咲は小さく首をかしげたあと、平然と告げた。
「でも、いいよ。そっち、食べて。私はこれ食べるから。どっちでも平気だから」
“どっちでもいい”
その一言に、わずかに場の空気が変わった。
通信担当の女性が、気まずそうにスプーンを置く。
「いえ……取り違えたの、私なので、戻します」
「いいって。ほんと、気にしないで。……ね?」
穏やかな声。でも、それ以上返す余地を与えないような断定的な微笑み。
近くにいた奏太は、その様子を遠巻きに見ていた。
実咲が“相手を責めるでもなく、引かせるでもない”微妙な立ち位置を取っていることに、少し引っかかるものを覚えた。
彼女はきっと、どちらが正しいかには関心がない。
ただ、“自分が判断を避けた結果”に対して、あくまで軽やかに振る舞おうとしている。
そこに含まれる軽視。
選んだ側の思いも、食の好みも、判断に至る葛藤も──“まあ、どっちでもいいじゃない”とする態度。
「……他人の判断を信じてないのか、委ねすぎて気にしてないのか……どっちなんだろうな」
小さく、独りごちた。
その後も、食堂には軽い笑いと会話が続いた。
実咲は結局、誰のものとも知れない和風の皿を手に取り、淡々と食事を進めていた。
食べ方は丁寧で、マナーも申し分ない。
だが、彼女の周囲には奇妙な“真空地帯”が生まれていた。
「なんか、話しかけづらいな……」
小声でぼやいたのは、陽斗だった。
彼はスープを啜りながら、向かいの席にいた健司へと視線を送った。
健司は苦笑しながら肩をすくめる。
「悪気はないんだろう。ただ、他人の“選択の重み”に気づいてないってだけで」
「でも……逆にそれ、すごいよな。相手がどう思うか考えずに、自分は大丈夫って言い切れんの」
「自信ってより、“委ねることに慣れすぎた人”って感じだな」
その言葉に、陽斗はうなずいた。
「なんか、わかる気がする。……誰かが決めてくれたほうが、楽なときってあるもん」
食事が一段落し、誰かが小さな乾杯を提案した。
紙コップに注がれた微炭酸飲料が、手の中でふるふると揺れる。
「それじゃあ、調査航海の無事と、みんなの健闘を祈って――乾杯!」
「かんぱーい!」
声が上がる。その中で、実咲はふと立ち上がり、笑顔を浮かべて言った。
「みんなが選んでくれた船に、乾杯だね」
一瞬、空気が止まる。
──選んでくれた?
その言葉に違和感を覚えたのは、にこだった。
「……実咲さんも、自分で選んで乗ったんじゃないんですか?」
思わず、口にしてしまった。
実咲は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔を作る。
「うん。でも、私ひとりじゃ、決められなかったから。誘ってくれた人たちに、感謝してるって意味」
それは否定ではない。でも肯定でもなかった。
にこは、微妙に釈然としないままコップを持ち直した。
奏太もまた、その言葉に引っかかっていた。
“誘われたから来た”という構図は、逃げ道にもなりうる。
判断を自分で下さなければ、その責任も、痛みも、誰かのものにできるからだ。
だが──その選択の代償は、いずれ自分自身に返ってくる。
玻璃の島が、それを許さないことを、彼女はまだ知らない。
夜も更け、船は安定した航行を続けていた。
空は雲に覆われ、星は見えない。
だが、甲板から見下ろす海面には、ところどころ淡く光る発光プランクトンの帯が揺れていた。
実咲は、静かな足音でその縁に立っていた。
彼女の手には、飲みかけの紙コップが握られている。
「……選ばなかったわけじゃない」
ぽつりと、誰に言うでもなく、言葉がこぼれる。
「ただ……選ぶのが、怖かっただけ」
潮風が吹き、彼女の髪が揺れた。
その瞬間、背後に人影が立つ。
振り返ると、健司が立っていた。手には整備記録のファイル。
「まだ起きてるのか。胃に悪いよ、夜の海風は」
「……健司さんって、こういうとき、いつも現れますね」
「困ってる人間の空気ってのは、整備不良と似てるからな。音が違うんだ」
そう言って隣に立った健司は、夜の海をじっと眺めた。
しばらくの沈黙のあと、実咲が小さく聞く。
「判断って、怖いですよね」
「そうだな。怖い。特に、誰かの人生に影響する判断はな」
「じゃあ……判断を他人に預けたら、その人を信頼してるってことになりますか?」
健司は笑った。だがそれは、からかうような笑みではなかった。
「信頼じゃなくて、依存って呼ぶんだよ。それは」
実咲は目を伏せた。
「……やっぱり、そうですよね」
「でも、自分で気づいたなら、もうそれは依存じゃない。これからの判断は、自分でやってみな」
「……できるかな」
「大丈夫。“判断”ってのは、正解を出すことじゃない。誰かに責められても、やっぱり“これでよかった”って思える道を選ぶことだよ」
実咲は、ゆっくりと海を見つめた。
静かに、紙コップを手放す。中の泡はすぐに風に飛び、カップだけが甲板に転がった。
その音が、確かに彼女の“最初の判断”のように響いた。
彼女が自分の意思で動くときが、いつか必ず来る。
そのとき、玻璃の図書館が何を映すか──
まだ誰にも、わからない。
(第4章 完)
《ヴァリアント》は出航から二日目。
初期航行における各部チェックがひと段落し、夕食を兼ねた“非公式歓迎会”が開かれている。
天井のLED照明が、ステンレスの食器に反射してやたら眩しい。
蒸気がたつスープ鍋の横で、数人の船員がプラスチックのグラスを手に乾杯の合図をしていた。
「いやー、このメニュー、いいっすね! 和風? 洋風? どっちなのか分かんないけど!」
「カレーに刺身を添えるセンスは……新しいよな」
和やかな笑い声。
だがその一角で、何やらひと悶着が起きようとしていた。
「ねぇ、これ……あたしの、じゃない?」
一人の女性が、テーブルの上に置かれた皿を指差していた。
声は穏やかだが、視線は鋭い。
彼女の名は、花岡実咲。
ふわりとウェーブのかかった長い髪、ピンクベージュのカーディガンを羽織った細身の体。
ただし、その表情は可憐というより、どこか“間違えたくない女”の空気を纏っていた。
「ごめんなさい、花岡さん。そのプレート、私が取っちゃったかも」
手を挙げたのは、通信担当の女性隊員だった。
皿には、味噌風スープと、酢漬けのサバが乗っている。事前に希望を出せた“和寄りメニュー”だ。
「え、でも……私が選んだの、洋食のはず……」
実咲は小さく首をかしげたあと、平然と告げた。
「でも、いいよ。そっち、食べて。私はこれ食べるから。どっちでも平気だから」
“どっちでもいい”
その一言に、わずかに場の空気が変わった。
通信担当の女性が、気まずそうにスプーンを置く。
「いえ……取り違えたの、私なので、戻します」
「いいって。ほんと、気にしないで。……ね?」
穏やかな声。でも、それ以上返す余地を与えないような断定的な微笑み。
近くにいた奏太は、その様子を遠巻きに見ていた。
実咲が“相手を責めるでもなく、引かせるでもない”微妙な立ち位置を取っていることに、少し引っかかるものを覚えた。
彼女はきっと、どちらが正しいかには関心がない。
ただ、“自分が判断を避けた結果”に対して、あくまで軽やかに振る舞おうとしている。
そこに含まれる軽視。
選んだ側の思いも、食の好みも、判断に至る葛藤も──“まあ、どっちでもいいじゃない”とする態度。
「……他人の判断を信じてないのか、委ねすぎて気にしてないのか……どっちなんだろうな」
小さく、独りごちた。
その後も、食堂には軽い笑いと会話が続いた。
実咲は結局、誰のものとも知れない和風の皿を手に取り、淡々と食事を進めていた。
食べ方は丁寧で、マナーも申し分ない。
だが、彼女の周囲には奇妙な“真空地帯”が生まれていた。
「なんか、話しかけづらいな……」
小声でぼやいたのは、陽斗だった。
彼はスープを啜りながら、向かいの席にいた健司へと視線を送った。
健司は苦笑しながら肩をすくめる。
「悪気はないんだろう。ただ、他人の“選択の重み”に気づいてないってだけで」
「でも……逆にそれ、すごいよな。相手がどう思うか考えずに、自分は大丈夫って言い切れんの」
「自信ってより、“委ねることに慣れすぎた人”って感じだな」
その言葉に、陽斗はうなずいた。
「なんか、わかる気がする。……誰かが決めてくれたほうが、楽なときってあるもん」
食事が一段落し、誰かが小さな乾杯を提案した。
紙コップに注がれた微炭酸飲料が、手の中でふるふると揺れる。
「それじゃあ、調査航海の無事と、みんなの健闘を祈って――乾杯!」
「かんぱーい!」
声が上がる。その中で、実咲はふと立ち上がり、笑顔を浮かべて言った。
「みんなが選んでくれた船に、乾杯だね」
一瞬、空気が止まる。
──選んでくれた?
その言葉に違和感を覚えたのは、にこだった。
「……実咲さんも、自分で選んで乗ったんじゃないんですか?」
思わず、口にしてしまった。
実咲は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔を作る。
「うん。でも、私ひとりじゃ、決められなかったから。誘ってくれた人たちに、感謝してるって意味」
それは否定ではない。でも肯定でもなかった。
にこは、微妙に釈然としないままコップを持ち直した。
奏太もまた、その言葉に引っかかっていた。
“誘われたから来た”という構図は、逃げ道にもなりうる。
判断を自分で下さなければ、その責任も、痛みも、誰かのものにできるからだ。
だが──その選択の代償は、いずれ自分自身に返ってくる。
玻璃の島が、それを許さないことを、彼女はまだ知らない。
夜も更け、船は安定した航行を続けていた。
空は雲に覆われ、星は見えない。
だが、甲板から見下ろす海面には、ところどころ淡く光る発光プランクトンの帯が揺れていた。
実咲は、静かな足音でその縁に立っていた。
彼女の手には、飲みかけの紙コップが握られている。
「……選ばなかったわけじゃない」
ぽつりと、誰に言うでもなく、言葉がこぼれる。
「ただ……選ぶのが、怖かっただけ」
潮風が吹き、彼女の髪が揺れた。
その瞬間、背後に人影が立つ。
振り返ると、健司が立っていた。手には整備記録のファイル。
「まだ起きてるのか。胃に悪いよ、夜の海風は」
「……健司さんって、こういうとき、いつも現れますね」
「困ってる人間の空気ってのは、整備不良と似てるからな。音が違うんだ」
そう言って隣に立った健司は、夜の海をじっと眺めた。
しばらくの沈黙のあと、実咲が小さく聞く。
「判断って、怖いですよね」
「そうだな。怖い。特に、誰かの人生に影響する判断はな」
「じゃあ……判断を他人に預けたら、その人を信頼してるってことになりますか?」
健司は笑った。だがそれは、からかうような笑みではなかった。
「信頼じゃなくて、依存って呼ぶんだよ。それは」
実咲は目を伏せた。
「……やっぱり、そうですよね」
「でも、自分で気づいたなら、もうそれは依存じゃない。これからの判断は、自分でやってみな」
「……できるかな」
「大丈夫。“判断”ってのは、正解を出すことじゃない。誰かに責められても、やっぱり“これでよかった”って思える道を選ぶことだよ」
実咲は、ゆっくりと海を見つめた。
静かに、紙コップを手放す。中の泡はすぐに風に飛び、カップだけが甲板に転がった。
その音が、確かに彼女の“最初の判断”のように響いた。
彼女が自分の意思で動くときが、いつか必ず来る。
そのとき、玻璃の図書館が何を映すか──
まだ誰にも、わからない。
(第4章 完)



