鋼の床を踏むたびに、重たい金属音が響く。
 整備デッキ──エンジンと駆動系統のチェックが集中するこの場所は、音と熱と汗の交差点だった。
 エンジン整備の合間に、数人の隊員が集まっている。
 床に広げられた参加者名簿を中心に、何人かが膝をつき、名札と顔を突き合わせていた。
 「さて、水嶋くん。君が、あの“記憶仮説”の水嶋博士の息子さんだね?」
 呼び止めたのは、オレンジ色のジャンプスーツに身を包んだ一人の男だった。
 名前は、青山健司──本職は設備安全管理官。
 白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、顔には人懐っこい笑みを浮かべている。
 奏太は一瞬だけためらったが、名簿を覗き込んでいる周囲の視線に気づき、頷いた。
 「はい、水嶋奏太です。文化情報工学を専攻していて……今回の観測には、記憶構造の解析技術を提供する立場で」
 説明する自分の声が、微かに乾いているのがわかる。
 研究者としての自負と、それが正当に理解されないという諦めの板挟み。
 だが、健司は否定も揶揄もせず、静かに頷いた。
 「いいね。専門は違うが、“何を目的に乗ったか”を自分で言えるのは、立派なことだよ」

 その一言に、場の空気がほんの少しだけ和らぐ。
 名簿を回していた他のクルーたちも、肩の力を抜いて一礼する。
 「この船では、誰が正しいかじゃなくて、“誰が責任を持てるか”が大事だからね」
 そう言って、健司は金属のケースを開けた。
 中から出てきたのは、タブレット型の電子図と、紙の海図、それに手作りの“人形アイコン”たち。
 「これ、チーム分け確認用。現場で動くときは、顔と立場が一致してないとね。見た目で判断するのは失敗の元だ」
 奏太が驚いたようにアイコンを手に取ると、健司は笑った。
 「全部、俺の手作りさ。効率は悪いけど……記憶には残るからね」

 その言葉に、奏太の中で何かが引っかかった。
 “記憶に残る”。それは、彼自身が追い続けているテーマだった。
 「青山さん、今の言葉……記憶って、どうやって残すべきだと思いますか?」
 「記録じゃなく、記憶に、ってこと?」
 健司は肩を竦め、天井の鉄骨を見上げた。
 「そりゃ難しい質問だ。でも、俺は“誰かと関わった痕跡”があれば、それはもう記憶になると思うよ」
 「他人との関わりが、記憶に?」
 「ああ。誰かが“あの人が言ってたな”って思い出してくれるなら、それだけで十分さ」

 奏太は、その言葉を胸のどこかで大事に受け止めた。
 父が遺したものもまた、関わった人々の中に残る“痕跡”だったのではないか、と。
 名簿の端を指でなぞりながら、彼は初めて、“ここにいていいのかもしれない”と感じていた。

 その後、名簿の確認はスムーズに進んだ。
 健司が合間合間にユーモアを交えて説明することで、初対面同士の緊張も次第に解けていく。
 奏太は、自分が“質問攻め”に遭っているのを感じながらも、あまり不快ではなかった。
 「文化情報工学って、具体的に何やるんですか?」
 「“記憶の構造”って、哲学ですか、脳科学ですか?」
 その問いかけに、奏太は慎重に答える。
 「どちらとも違っていて……むしろ、文化的な記憶の“表現”に近いです。
  たとえば、“この風景を見て思い出す歌”とか、“誰かの言葉で蘇る情景”とか──そういうつながりの仕組みを数式で表現しようとしています」
 「……なるほど。記憶を科学するんですね」
 最初に質問してきた若い整備士が、興味深げに頷いた。
 そして、誰かがぽつりとこぼす。
 「もし本当に“島が記憶を映す”って話が事実なら……すごく怖くないですか?」

 一瞬、場の空気が揺れた。
 笑い話でも疑念でもなく、“素直な本音”として放たれた一言。
 誰かが過去に何かを隠している。誰もが、そうかもしれない。
 奏太は、その沈黙の中でふと視線を感じた。
 見れば、健司が静かにこちらを見ている。
 「水嶋くん」
 「……はい」
 「君が、船に乗ってきた理由。きっといろんな人が詮索したくなるだろう。
  でも俺は、それを“説明しすぎなくてもいい”と思ってる。
  理由の深さは、時間と一緒に見せてもらえたら十分だ」

 その言葉に、心が少しだけ軽くなる。
 ああ、この人は、問いただすんじゃなくて“見守る”側なのだ、と。
 それだけで、乗船した価値が少し報われたような気がした。
 「ありがとうございます」
 短く返すその声に、健司はにこりと笑った。
 「こっちこそ、これからよろしくな。奏太くん」

 整備デッキの片隅で、鉄のパイプが風に揺れ、小さく鳴った。
 それはまだ見ぬ迷宮の入口を告げる前兆のようであり、
 これから始まる“映写の記録”がすでに動き始めている証にも思えた。

(第3章 完)