広間の中央、円形の鏡面板が光を放ち始めた。
 その上に立つ絢香の足元から、過去の映像が立ち上がる。
 霧のように揺れるそれは、ある医療施設の一室だった。

 酸素マスクをつけた少女が、ベッドに横たわっていた。
 その横で、絢香は優しく微笑みかけている。
 ──だが、その目は泣き腫らしたように赤く滲んでいた。

 《大丈夫。手術はきっと成功するよ。約束する──》

 その言葉に、少女は微かに笑って頷いた。
 だがその直後、映像の色調が急変する。
 機械音、点滅する警告灯。
 少女の心電図が、沈黙に変わる。

 静寂のなかで、絢香の声だけが残る。

 《ほんとは、成功率……十パーセントもなかったのに──》

 映像が消える。
 だが、残されたのは無数の“嘘”の文字だった。

 「私は、嘘をついた。希望なんかないのに、あるって言った。
  救える可能性がないと知ってて、信じさせた」

 沈黙。
 その場にいた仲間たちは誰も、言葉を出せなかった。

 「でも……それで、その子は最後に笑えた。
  怖がらずに、旅立てた。
  ……私は、それでよかったって、今も思ってるの」

 彼女の肩は震えていたが、顔はしっかりと上がっていた。

 「私は“嘘つき”かもしれない。でもね、
  この嘘だけは、正しかったって言いたい。
  嘘で人を救えたってこと、私は信じてる」

 にこが一歩踏み出した。
 嘘が苦手なはずの彼女が、真っ直ぐ絢香を見て頷いた。

 「……それは、祈りだと思う」

 絢香の目が見開かれる。

 「“嘘”って言葉じゃ足りない。
  あなたは、その子に祈ったんだよ。
  “生きて”って、“最後まで笑って”って……」

 「……にこ……」

 他の仲間たちも、次々と絢香のそばに集まる。
 その輪の中で、鏡面板が優しく光り、扉が音もなく開いた。

 扉の先に広がっていたのは、小さな回廊だった。
 壁には“嘘”という言葉が無数に刻まれている。
 だが、そのすべてが同じではない。

 「利己的な嘘」「守るための嘘」「愛の嘘」「逃げの嘘」──
 分類され、形を変えて光っていた。

 その中心に、ひとつだけ浮かぶ言葉がある。
 《真実に届く嘘》

 「……ここ、試されてるんだ。
  本当に自分が信じる“嘘”を、語れるかって」

 絢香はゆっくりと歩を進めた。
 壁の光が彼女の存在に反応して、脈動するように色を変えていく。

 「私は、“本名”を隠して生きてきたの。
  家族との関係が……あまりに壊れてたから。
  名前に縛られたくなくて、偽名で通してた」

 立ち止まると、目の前に新たなパネルが現れた。
 ──《本名を入力してください》

 無音の中で、仲間たちが息を呑む。
 絢香の指が、震えながらキーボードを叩いた。

 《宮内 綾》

 入力の瞬間、壁が白く爆ぜる。
 刻まれた無数の“嘘”が、透明に変わり、音もなく崩れた。

 「私は、“絢香”でいたかった。
  でも、“宮内綾”がいたから、今の私がある。
  ……どっちも、私なんだよ」

 崩れ去った壁の奥に、次の区画への扉が現れた。
 それはまるで、“受け容れられた嘘”の証のように、柔らかな光を放っていた。

 健司がぽつりと呟いた。
 「名前って、誰かにつけられた記号だけど、
  それをどう使うかは、自分で決めていいんだな……」

 絢香は振り返り、いたずらっぽく笑った。
 「嘘つきでもいいでしょ? 私、みんなのことだけは、ちゃんと信じてるから」

 誰もが微笑み、黙ってその背を追った。
 嘘をつく理由と、信じる強さのあいだに生まれた静かな共感が、そこに満ちていた。

 真実とは、ただの事実ではない。
 嘘さえも超えて、胸の奥から語られる意志こそが──真の“言葉”なのかもしれない。

(第28章 完)