迷路のように入り組んだ石造りの回廊を、美紗はひとり歩いていた。
 左右の壁には、古代語のような記号がびっしりと刻まれている。
 そのすべてが、彼女に語りかけてくるようだった。

 ──“正しいのはあなた。間違ってなどいない”
 ──“あなたの信じた論理は、いつだって正しかった”

 その声は、どこか心地よく、甘かった。
 まるで彼女の選択をすべて肯定してくれる母親のようだ。

 「正しければ、誰かを傷つけてもいいの?」

 小さく呟いた自分の声が、広い回廊に反響する。
 かつて、美紗は友人との約束を破らなかった。
 約束の時間、彼女は気象警報を理由に、友人の家へ行くことを頑なに拒否した。

 ──結果、友人はたったひとりで歩き、途中で転倒し骨折。
 ──あとで責められても、美紗は一言だけ繰り返した。
 「私は間違ってない。行かないべきだった」

 あのときの、友人の表情が壁に浮かぶ。
 痛みではない、裏切られたような寂しさ。
 その目は、美紗の“正しさ”に何の意味も感じていなかった。

 「私は、間違ってなかった。……でも」

 彼女の手のひらに、小さなガラスのような鍵が現れる。
 扉が一つ、目の前に現れ、閉ざされている。

 その扉には文字が刻まれていた。
 ──“正しさではなく、共に歩む意志を示せ”

 「論理は、間違ってなかった。でも……正しさだけじゃ、人はついてこないんだね」

 ゆっくりとガラス鍵を手に、扉に近づく。
 美紗は目を閉じて、かつて言えなかった一言を、ようやく口にした。

 「……心配だった。あのとき、一緒にいたかった。でも……私は、怖かったんだ」

 カチリ。
 音もなく、扉の錠が外れた。

 開いた扉の先には、かつての友人と並んで歩く“あり得たかもしれない過去”が映し出されていた。
 笑い合いながら肩を並べる二人。
 雨が降っても、転んでも、どちらかが必ず手を差し伸べている。

 「……こんなふうに、一緒に、前を向けてたら……」
 美紗はその映像を見つめながら、静かに息を吸った。

 「私は、譲ることが怖かった。曲げたら、私じゃなくなるって思ってた。
  でも、譲るって……捨てることじゃない。誰かと歩くための“選択”なんだね」

 壁に刻まれていた記号が、ひとつひとつ光となってほどけていく。
 残されたのは、一本の道──石畳が柔らかく光を放ち、彼女を誘っていた。

 その先に、仲間たちの声が聞こえる。
 「美紗ー! 無事かー!」
 「遅いぞー! 何してたー?」

 彼女はゆっくりと微笑み、歩き出す。

 足音は軽く、視線はまっすぐだった。
 強いままで、でも固くはない──そんな“しなやかな信念”が、彼女の背に宿っていた。

 譲らないことと、前へ進まないことは違う。
 美紗はようやく、その境界を、自分の中に引くことができたのだった。

(第26章 完)