その部屋は、奇妙な静けさに包まれていた。
 周囲の壁はすべて書類──無数の契約書のようなものが風に舞うように浮かんでいる。
 誰かの筆跡、印影、署名。
 それはまるで、信頼が文字として結晶化したような空間だった。

 「……見覚えが、ある」
 ライランが壁際に近づき、ゆっくりと指先を伸ばす。
 触れた瞬間、一枚の文書が光を帯びて浮かび上がった。

 それは、日本と海外の研究機関が交わした、ある共同調査協定。
 そしてそこには、彼のサインが記されていた。

 ──“この契約をもって、両者は情報の独占と軍事応用を禁ず”──

 契約文の下、同じくサインを交わした日本側の代表名が記されている。
 “宮田徹”──奏太の父だった。

 「……まさか」

 映像が動き出す。
 会議室。外国語が飛び交い、誰かが声を荒げている。
 若い頃のライランと、奏太の父・徹が、机を挟んで言い争っていた。

 「……約束したはずだ、徹。兵器への流用は絶対にしないと!」
 「私は止めた! だが、組織が判断したんだ……」

 映像はそこで途切れ、代わりに別の映像が差し込まれる。
 それは契約の写しが、どこかの火の中に投じられる光景。

 焼かれていくのは、信頼か、それとも紙の束か。

 ライランは唇を引き結んだまま、動かない。
 その場にただ立ち尽くし、己の過去を噛みしめるように映像を見つめ続けていた。

 背後から、そっと奏太が声をかける。

 「……親父のこと、許してやってくれとは言わない。でも、あれが全部じゃないってことだけは……知ってほしい」

 ライランは黙ってうなずいた。
 それは、理解のうなずきではない。
 受け入れる準備のうなずきでもない。
 ──ただ、“向き合う覚悟”を示すうなずきだった。

 ライランは静かに一歩、演算装置の中心へ進み出る。
 足元に小さな台座がせり上がり、そこに空白の文書が投影された。

 【契約更新】
 【旧契約:信頼の保持】
 【新契約:誠実の再定義】
 ――内容を入力してください。

 彼は一瞬だけ迷い、そしてペンのような光筆を握った。
 文字を綴りはじめたその手は、決して揺れなかった。

 ──「我は、約束を破った。だが、信頼は捨てていない」
 ──「信頼とは、契約を守ることではなく、破ったときに再び向き合うこと」
 ──「私は再び、ここに立ち、誠実を選び取る」

 光の文字が文面を満たし終えた瞬間、契約文が光の粒となって舞い上がる。
 壁に漂っていた過去の書類たちが次々に光へと還り、空間が清められるように澄んでいく。

 ライランの表情には、悲しみと覚悟、そしてどこか安堵が混ざっていた。

 「……サインは、信頼の証じゃない。
  本当の信頼は、相手を見て、もう一度選ぶことだ」

 彼の言葉に、誰もが深くうなずいた。
 それは、かつての“破られた契約”に代わる、新たな“共に進む意思の手紙”だった。

 ライランが振り返る。
 仲間たちの視線が、まっすぐ彼に注がれていた。

 奏太はそっと言った。
 「……ありがとう。親父のこと、俺も……ちゃんと向き合うよ」

 ライランの頬が少しだけ緩んだ。

 「信頼は一度壊れても、もう一度築くことはできる。
  それを、君たちが教えてくれた」

 再び進路が現れ、扉が開く。
 仲間たちは新たな空気を吸い込み、次なる“記憶の階層”へと足を踏み入れていった。

 “誠実”とは、決して過去を無かったことにする力ではない。
 それは過去を背負いながら、なおも真っすぐに進む意志のことだった。

(第22章 完)