ガラス回廊の奥、突如として現れたのは、黒鉄に包まれた正方形の部屋だった。
 中央には円柱状の演算装置が鎮座しており、天井には“選択肢”を表す四つのシンボルが光っている。

 「分かれ道か……?」
 健司が端末を開くも、接続不能。
 この空間では、外部データへのアクセスが遮断されている。

 「どれを選ぶかで、進路が変わるってこと?」
 にこの言葉に、誰もが緊張を走らせる。
 そして、演算装置が表示するのは──

 A:最短距離の不安定ルート
 B:安定だが遠回りなルート
 C:危険だが高速のルート
 D:無記名ルート(選択時に内容が開示)

 まるでテスト問題のように整った情報。
 沙也加はすぐに視線を走らせ、内部構造を分析しはじめる。

 「Bが最も損失が少ない。速度は劣るけど、エネルギー収支が一番安定してる。
  AとCは破損リスクが高いし、Dは選択するまで情報が隠される“ブラインド項目”。論理的には除外対象」

 彼女は迷いなくBの選択ボタンに手を伸ばそうとした──そのとき。

 「でも……そこ、本当に“私たち”のためのルートなの?」
 にこの言葉が、彼女の思考を止めた。

 「え?」

 「沙也加ちゃん、今の判断って“最も損失が少ないルート”だったよね。
  でも、私たちがどう感じるかは……計算に入ってなかったよ」

 沈黙が落ちる。
 そして、沙也加は初めて──自分の論理の外に“感情”があることを意識する。

 脳裏に浮かぶのは、航海中、陽斗や千紘が誰かのために“あえて非効率”な行動を取った瞬間。
 それが、誰かの笑顔に繋がったこと。

 論理は正しい。でも、正しいだけで人は動けない。

 「……わたし、間違えてたのかな」

 沙也加は迷うように再び天井を見上げる。
 そして、誰にも相談せず──Dの選択ボタンに、そっと触れた。

 選ばれた“無記名ルート”の情報が開示される。
 それは、全員が負担を分かち合って通過する“協働型安全ルート”。
 一人が判断するのではなく、全員で進む“遠回りだけど壊れない道”だった。

 沙也加の目が、わずかに潤む。

 「……感情で、選んだんだけど。間違ってない、よね?」

 沙也加の問いに、仲間たちが順にうなずいて応えた。
 「間違ってないよ。だって、私たちが“進みたい”って思える道だもん」
 にこが笑うと、千紘もにっこりと笑みを添えた。
 「論理も大事。でも“気持ち”で動く人間だから、ね」

 選ばれたDルートの扉がゆっくりと開き、全員が並んで歩ける幅の広い道が現れる。
 足元は光るプレートで舗装されており、踏み出すたびに優しい振動が全身に伝わる。
 それはまるで、選択を肯定してくれているかのような、穏やかな導きだった。

 「誰かの命を、効率で選べるわけないよね……」
 沙也加は呟く。
 それは誰に向けた言葉でもなく、自分自身に向けた静かな肯定だった。

 その背後で、健司がぽつりと口を開く。
 「……俺、ちょっとだけ驚いてる。
  沙也加が“迷い”を持ってくれたのが、嬉しい」
 「……それ、どういう意味?」
 沙也加が首をかしげると、健司は肩をすくめて笑った。
 「前までの君は、正しいことしか言わなかったからさ。
  今日の君の方が、俺は信用できる」

 仲間たちが一人、また一人とそのルートへ踏み出す。
 “全員が同じ歩幅で進む道”
 それは、非効率かもしれない。
 だが確かに、誰一人取り残さない選択だった。

 沙也加は最後尾でその姿を見守りながら、そっと胸に手を当てる。
 心の奥で、なにかが少しだけ柔らかくなる。

 論理では測れなかったものが、今、彼女の中に芽生えつつあった。

(第21章 完)