扉の先には、迷路のように枝分かれした回廊が広がっていた。
 壁はすべて透明なガラス状で、内部に何かがうごめく“記憶のフィルム”のようなものが流れている。
 誰かの過去が、隠れることなくこの空間に晒されているようだった。

 そのとき、陽斗が立ち止まる。
 右手の壁面に──“知っている顔”が映っていた。

 「……潤也?」
 声が震える。
 少年の名を、今なお忘れていなかった。
 それは、陽斗の小学校時代の友人。
 虐待を受けていた潤也を、陽斗だけが気にかけていた。

 映像の中の自分は、放課後の校庭で潤也と話している。
 ──「辛かったら、いつでも言えよ」
 ──「オレ、力になるからさ」

 だが、それだけだった。
 誰にも相談しなかった。
 本当に踏み込むことは、できなかった。

 映像の時間が進む。
 潤也が、ある日突然転校して姿を消す。

 ──もう、誰も彼を知らない。

 「……俺、あのとき……」
 陽斗は壁に手をついた。
 何年も胸の中に沈めていた後悔が、一気に押し寄せてくる。
 「優しくしてるつもりで……なにもしてなかったんだよ、俺は」

 そこへ、そっと声が届く。
 「でも、その優しさが潤也くんを支えてたかもしれないよ」
 にこだった。後ろからそっと陽斗の背中に手を添える。

 「踏み込まないことが、全部悪いとは思わない。
  だって……子どもだったんだもの」

 陽斗の目に、涙がにじむ。
 優しさで包もうとした手のひらが、何も救えなかった記憶に切り裂かれるような痛みを覚えていた。

 陽斗はゆっくりと、記憶の映像に向き直った。
 涙を隠すでもなく、ただ真正面からその“後悔”を見据える。

 「……オレ、本気で救いたかった。
  でも、あのときのオレじゃ……踏み込む勇気がなかった」

 その言葉に応えるように、映像の中の少年──潤也が、陽斗に向かって微笑んだように見えた。
 映像が静かに消える。
 透明な壁が音もなく下り、進行ルートが開かれる。

 陽斗は拳を握りしめた。

 「……今なら、できる気がする。誰かの痛みを、ちゃんと見て、ちゃんと向き合える」

 その背中を見て、仲間たちもまた歩き出す。
 誰も彼の過去を責めなかった。
 むしろ、その“弱さに気づいた勇気”に胸を打たれていた。

 ふと、マリアが足を止める。
 「優しさって、甘やかすことじゃないのね」
 「うん。見ないふりしないって、けっこう怖いことだよ」
 千紘がしみじみと呟く。

 陽斗は振り返らず、けれどどこか穏やかな声で言った。

 「俺、もう逃げない。誰かを助けたいって気持ちに、正直に生きてみるよ」

 その足取りは軽くない。
 だが確かに、“逃げずに向かう人”の歩き方だった。

 透明な回廊の先に、また次の“記憶の断層”が待ち受けている。

(第20章 完)