『玻璃の孤島に響く協奏』

 曇り空の下、甲板には初夏の風が吹いていた。
 湿り気を帯びたその空気の中で、にこは腕の中のファイルをぎゅっと抱え込んでいた。
 彼女──二階堂にこが調査船《ヴァリアント》に乗ると決めたのは、徹底的な自己防衛のためだった。
 正確には、“自分が間違った場所にいるわけではない”ということを、証明するため。
 「チェックリスト……忘れ物は、ない」
 にこは小声でつぶやきながら、再びファイルを開く。
 ページには、航海中の生活マニュアル、安全訓練スケジュール、連絡系統の樹形図──
 「虚偽申告は……嫌だから」
 思わずこぼれた独り言に、自分でも驚く。
 それは誰かに聞かせたいわけでも、誰かを責めたいわけでもない。
 ただ、嘘をついてしまったときの自分自身の感覚が、どうしても嫌だった。
 そしてこの船に乗る以上、“嘘をつかない”ことは最優先事項だった。

 デッキを歩いていたとき、前方に立っている一人の男性が目に入る。
 灰色のシャツにベージュのチノ。肩から斜め掛けしたポーチの中には、厚めのノートらしきものが覗いている。
 「……水嶋奏太さん、かな」
 にこはそっと近づき、声をかける。
 振り返った彼は、どこか影のある目をしていた。
 だがその瞳には、はっきりとした意志が灯っていた。
 「えっと……にこさん?」
 「はい。乗船者確認のために、挨拶して回ってて。書類、提出済みですよね?」
 「はい、もう済ませました。……でも、慣れないことばかりで」
 そう言って苦笑する奏太に、にこはわずかに頷く。
 嘘ではない。たぶん、それは本音だ。
 だから、少しだけ安心して返す。
 「私も同じです。はじめての調査船だから……慎重にいこうと思ってます」

 遠く、汽笛が鳴った。
 二人は並んで甲板の端に立ち、港の風景を眺めた。
 船がゆっくりと動き出す。
 水面が揺れ、波がきらめき、岸が少しずつ遠ざかっていく。
 「これが……出発なんですね」
 にこがつぶやくと、奏太は黙って頷いた。
 その横顔はどこか寂しげで、それでいて、どこか強く見えた。

 「乗船前に……不安だったんです。正直に申告したことを、後悔するんじゃないかって」
 にこは、自分の言葉に驚いていた。
 初対面の相手にこんな風に話すなんて。だが、話さずにはいられなかった。
 「虚偽申告って、あまりにも軽い言葉にされがちだけど……」
 「嘘をついたこと、きっと忘れられないと思ったから」
 風が彼女の髪をかすめた。
 奏太はしばらく沈黙してから、静かに言った。
 「俺の父は、生前“嘘も記憶される”って言ってました」
 「島に行けば、全部見える。隠したことも、嘘も、本当も。だから、覚悟しておいた方がいいって」
 にこの目が揺れる。
 「全部……映るんですか?」
 「わからない。でも、“覚えてること”だけじゃなく、“覚えたくなかったこと”まで──映るのが、玻璃の島らしい」

 その瞬間、船体が軽く揺れた。
 波ではない。何か、遠くで空気が変わったような――そんな揺れだった。
 「な、何ですか、今の?」
 「……わからない。でもたぶん、あの島が反応したんだと思う」
 奏太は、デッキの先を見つめた。
 にこも同じ方向を見た。
 まだ姿を現していない、玻璃の孤島。
 でも、その影は、すでに二人の心の奥に足を踏み入れていた。

 にこは、そっと息を吐いた。
 「……正直にしておいて、よかったかも」
 「え?」
 「だって……この島で嘘をついてたら、怖いことが起きそうだから」
 小さな笑い。
 それは自己防衛の仮面ではない、素直な笑みだった。
 奏太は微かに口元を緩めて、答える。
 「たぶん……それが、正解なんだと思います」

 曇り空はまだ晴れなかった。
 けれど、その下で二人は、まだ知らぬ孤島へ向かって、確かに一歩ずつ近づいていた。
 そしてこの小さな対話が、後に彼らをつなぎとめる“共鳴の起点”になることを──
 このとき、誰も知らなかった。

(第2章 完)