“鏡面湖”を越えた先、岩の裂け目を抜けると、広大な洞窟が現れた。
 天井から淡く光る鉱物が無数に吊るされており、全体が虹色に輝いている。
 ただ、その奥に──不気味なほど整然とした“壁画”があった。

 「……何これ。まるで、数式?」
 実咲が目を細める。
 奏太が言葉を挟もうとしたそのとき、健司が一歩前に出た。

 「違う。これは……数式に“見えるように設計された記号群”だ」
 手帳を取り出し、すでに書き出しを始めている。
 誰よりも早く、迷宮の“意味”に取りかかっていた。

 壁一面に刻まれた記号群。
 数値とアルファベット、幾何模様、脈動のような線。
 ぱっと見はアートにも見えるが、健司は確信した。
 これは“何かを示している”──しかも、無秩序ではない。

 「構造化されてる。これは……記憶階層のモデルだ」
 言いながら、指で複数の“記号の繰り返し”をなぞる。
 「思い出せる記憶は常に表層にあって、その奥に“忘れていたこと”がある……
  この壁は、島の内部が“個人の記憶構造”になってることを示してるんだ」

 「つまり、この島自体が“記憶を記録・構成・再現”してる……?」
 マリアが小さくつぶやく。健司は頷いた。
 「しかも、複数人の記憶が重なってる。“層”になってる」

 壁の中央、“自分自身の記憶”を表すと思われるパネルには、なぜか数式の乱れがあった。
 健司はそれを目にした瞬間、手が止まる。

 それは──かつて彼が家族に語れなかった“選択”の記憶。
 ある企業の不正に気づきながら、家庭の事情から内部告発できなかった。
 正しかったか、間違っていたか──今も答えは出ていない。

 その記憶が、なぜか“この壁画の一部”になっている。

 「……おかしい。こんな記号、俺は──」
 健司の指が震える。
 その“記号列”が自分の記憶を模していると気づいた瞬間、思考の整理が追いつかなくなる。

 映像が、壁の上に浮かび上がる。
 それは、健司がひとり、深夜のオフィスで“社内不正の証拠”を前に逡巡している場面だった。

 “自分は正義の味方じゃない。生活がある、家族がいる”
 “だから、見なかったことにしよう。口をつぐもう──”

 誰にも言えなかった記憶。
 ずっと“自分の理性”の奥に沈めたはずの選択が、ここに可視化されている。

 後ろで、陽斗が小さく口を開く。
 「……見たくない記憶、なんだろう?」
 健司は、反射的に答えかけたが──やめた。
 今だけは、取り繕うのをやめようと思った。

 「そうだ。間違っていたかもしれない。……でも、俺はあのとき、それしかできなかった」

 その言葉と同時に、壁画中央の“乱れた数式”が一瞬、光を帯びる。
 数値が整い、構造が解け──
 隠されていた“階段”が浮かび上がった。

 「開いた……?」
 マリアが驚きに目を見張る。
 奏太が歩み寄り、健司に言う。
 「……ありがとう。お前の“選択”が道を開いた」

 健司は、ひとつ息を吐いて笑った。
 「正しいかどうかは、まだわからないけど──
  でも、あのときの俺を“嘘”にしないために。先へ行くよ」

 洞窟の奥へ、光が差し込んだ。
 その先には、さらに複雑な記憶構造と、未知の“自己との対面”が待ち受けている。

(第18章 完)