午前五時ちょうど──
 潮が引き、まるで“橋”のように現れたサンゴ礁のリーフが、船と島とを結んでいた。
 虹色に濡れた岩肌。水滴を纏う空気。
 その全てが、まるで“呼吸する結晶”のように見える。

 奏太が、先陣を切った。
 硬く締めたブーツの紐をもう一度確認し、深く息を吸う。
 身体の奥底に、得体の知れない緊張が這い寄っているのを感じながら。
 ──これが、父が見たかった光景か。
 何度も何度も、論文に夢中で書き綴っていた“あの島”。
 学会で鼻で笑われ、論破され、それでも書き直した原稿たち。
 「行くぞ」
 その一言を皮切りに、彼は踏み出す。

 リーフの中央に、一枚だけ異質な石板があった。
 光を反射せず、どこか鏡面のように沈黙する黒い石。
 奏太がその上を踏みしめた瞬間──

 水面が“揺れ”た。
 ただの反射ではない。“何かの像”が、奏太の足元に映った。
 ──それは、中学時代の自分。
 薄暗い教室。消えかけた蛍光灯。
 発表を拒否され、机に突っ伏した“あのときの自分”が、そこにいた。

 「──っ!」
 咄嗟に目を逸らす。
 が、影は消えない。むしろはっきりしていく。
 視線を合わせることが、“鍵”のように感じられた。
 おそるおそる、その映像の中の“自分”を見つめる。
 声が、耳元で囁くように流れた。

 「……おまえが、期待されなくなった瞬間だ」

 息が詰まる。
 奏太は、言い返したかった。
 そんなもの、乗り越えた。今は違う。証明するために来たんだ。
 けれど──声は続いた。

 「それでも、“期待されていたかった”んだろう?」

 その言葉は、なによりも重かった。
 過去の失望ではなく、“願いがあった”ことを突きつけてきたから。

 足が、動かない。
 鼓動の速さが、周囲の静寂を塗り替えていく。
 風も音も消えたようなその瞬間、奏太は思った。
 ──これは、ただの島じゃない。
 ──ここは、“記憶を写す場所”だ。

 背後から、にこが声をかける。
 「奏太……?」
 彼女の声は、島の空気を割って届いた。
 不思議と、重く沈んでいた呼吸が、すっと軽くなる。
 「大丈夫。……ただ、ちょっと驚いただけだ」
 嘘ではなかった。だが、それが“本当の意味での大丈夫”ではないことも、自分でよく分かっていた。

 奏太はゆっくりと、石板から足を離す。
 足元の水面──そこにあった過去の像は、音もなく霧のように消えていった。
 水面が揺れ、ただの海面に戻る。
 その変化は、まるで“記憶が去った”かのような静けさを連れてきた。

 「……入ろう。俺たちは、ここに来た理由を忘れちゃいけない」
 その言葉に、にこが頷く。
 後方で控えていた陽斗、実咲、健司、マリアらも、それぞれの表情で呼吸を整えた。

 そのとき──空気が一変する。
 島の中心、虹色の層を纏ったドームのような丘が、音もなく“脈打つ”ように輝いた。
 「心拍……いや、違う。これは誰かの共鳴……?」
 沙也加が小さくつぶやく。
 健司がセンサーをかざすが、数値は乱れ、計測不能。
 その“光の脈動”に導かれるように、彼らは無言のまま、島の奥へと足を進めていった。

 誰も言わなかったが、全員が同じ直感を抱いていた。
 この島は、こちらを見ている
 そして、こちらの“中身”を写しとろうとしている

 だがそれでも、前に進むしかなかった。
 “何を写されるか”ではなく、“何を受け容れるか”を問われるのだと──
 奏太は、足元に力を込めた。

 その一歩一歩が、やがて全員の“記憶の扉”を開いていく。

(第16章 完)