それは、夜明けの少し前──
 《ヴァリアント》の船橋に、誰からともなく人が集まり始めた。
 ざわついた会話の端に、ひとつの単語が混ざる。
 「見えた……って、ほんとに?」
 誰かが双眼鏡を握りしめ、誰かがスマートレーダーを再確認する。
 しかし、最初に“それ”を視認したのは、風見役を務めていた美紗だった。

 「南南東、水平線上。……あれ、島……ですか?」
 その声に応じるように、全員の目が一点を注視する。
 ──そこには、確かに“何か”があった。
 海の色を透かすような、輪郭の不確かな影。
 でも確かにそれは、“陸地”ではなかった。
 まるで、海そのものが盛り上がって、ガラス細工のような塊になったかのような──
 虹色にきらめく、巨大な“無音の存在”。

 「……光の屈折? いや、あれは物理現象だけじゃ……説明できない」
 健司がつぶやく。横で沙也加が、手のひらサイズの簡易スペクトルをかざす。
 「反射強度が……不自然。結晶構造じゃない、“反射しすぎてる”」
 マリアが黙ってドローンを飛ばし、映像を同時送信する。
 「……海面ではない。あれは浮いている。いや、沈んでもいない」

 全員の視線が、その虹色の塊に引き寄せられる。
 水平線に浮かぶ“玻璃の孤島”。
 それは、潮の満ち引きとともに現れ、周囲の海を鏡面のように変えながら、静かに呼吸しているようだった。
 にこが思わず、手すりをつかんだ。
 「まるで、“見られてる”みたい……」

 そのとき、航海記録センサーが反応する。
 「未登録領域、接触まで──距離5.8km。速度を落とします」
 船内に、緊張とざわめきが走った。

 午前四時三十二分、夜と朝の境界が曖昧になる頃。
 船は接近速度を限界まで落としながら、“玻璃の孤島”へとにじり寄る。
 誰もが会話をやめ、ただ、見ていた。

 虹色の輝きは、あまりに非現実的だった。
 空の青を溶かしたような淡い反射。
 海の深さをすくったような暗い陰影。
 そのどちらでもない色──“ガラス色”としか言いようのない存在が、
 ただそこに、黙って確かに在った。

 「……あれが、“映す島”」
 奏太の声が、かすかに震えた。
 父が生前、唯一執着した未解明海域。
 学界でも“存在しない”とされた場所。
 だが今、それは目前にあった。

 にこがそっと口にする。
 「夢じゃ、ないんですよね……」
 誰も答えなかった。
 代わりに、風が止んだ。
 まるで“島”が、彼らの到来を察知したかのように──

 次の瞬間。
 水平線の彼方で、ガラス色の地面が、微かに開いた。
 “入口”──
 まるで、訪問者を受け入れるように、虹色の湾が口を開いたのだ。

 「……行けって、言ってるのか」
 誠がぽつりと漏らす。
 誰もそれに反論できなかった。
 目の前の光景が、なによりの答えだったから。

 奏太が、歩みを一歩前へ進めた。
 その背に、にこが続く。
 やがて、全員が無言のまま、デッキに並んだ。
 “未知”は、もう“疑い”ではなかった。
 ただ、目の前に在る“選択”だった。

 そのとき、空が白み始める。
 ガラス色の海に、陽光が差し込み、島の輪郭が一瞬だけ、完全な虹色の光に包まれる。
 その瞬間、誰かがつぶやいた。
 「きれい……なんて、言っていいのかわからないけど──」
 けれど、誰もが思っていた。
 これは、旅の終わりじゃない。
 ここからが、本当の始まりなのだと。

(第15章 完/第一幕・完)