その音は、リズムだった。
 機関室の奥──誰もがあまり足を踏み入れない空間で、トン、トン、と金属を叩く音が響いていた。
 叩いているのは、戸倉誠。
 船の整備担当でも技術者でもないが、工具の扱いにかけては誰よりも早かった。
 「交換部品、合わねえな……じゃ、作るしかねえか」
 そうつぶやいて、棚の奥からアルミ合金の端材を取り出す。
 既製品では合わない。発注も遅れる。なら、作る。それが彼の仕事観だった。

 誠の工具箱は、大きくて重い。
 でも、それを開ける手つきは丁寧だった。
 ──ネジが一本ないなら、削り出す。
 ──回路が破損したなら、ハンダでつなぎ直す。
 ──誰かが困っているなら、それが何の分野であれ、手を貸す。
 それが“誠という人間の流儀”だった。

 今日の修理対象は、ラボエリアにある精密秤の支持脚。
 わずかな傾きが、観測値を狂わせていた。
 「これくらい、気にしない人もいるだろうけど……」
 そう言いながら、誠は慎重に角度を調整し、ナノ単位で水平を整えていく。
 「……でもな、それが誰かの“努力”を台無しにするのは違うだろ」
 小さな修正。けれど、その一手が全体の精度を支えることを、彼はよく知っていた。

 作業を終えて立ち上がると、そこに陽斗が顔を出した。
 「やっぱりここにいた。……ね、これ見てよ」
 差し出されたのは、ラボ班の評価シート。
 “測定誤差、今日になって一気に減った”という驚きの記録が並んでいる。

 「これ、誰のおかげ?」
 「さあな。……でも、秤の脚、ちょっと傾いてたんじゃね?」
 誠は肩をすくめ、ふっと口元だけで笑った。

 “手柄はいらねえ。けど、誰かのために動いた実感は、ほしい”
 彼の中にあるのは、そんな静かな矜持だった。

 午後、機関室横の整備エリア。
 陽斗は、誠の隣で黙って道具箱の中を覗いていた。
 「このドライバー、柄が木製だ。今どき珍しいよね」
 「自分で削った。手が滑らねえからな」
 「え、これも? このモンキーレンチ、先端カスタムしてる……」
 「規格サイズが微妙に違うやつにも、使えるようにした」

 誠の道具箱には、いわゆる“既製品”はほとんどない。
 必要に応じて削り、溶接し、磨き、形を変え、目的に合わせて最適化されたものばかりだ。
 陽斗がぽつりとつぶやく。
 「なんか、愛だなあ……」
 誠は鼻で笑った。
 「そんな洒落たもんじゃねえ。“困ってる誰か”の顔が浮かぶと、勝手に手が動くだけだ」

 夕方、船内放送が流れた。
 「お知らせです。本日、計測データの誤差が著しく改善されました。
  原因特定は未了ですが、設備保守担当に心より感謝いたします」
 その言葉に、ラウンジの誰かが小さく拍手した。
 そして、機関室でも、陽斗がそっと誠に向かって掌を叩いた。

 「……拍手、苦手か?」
 「……別に」
 誠は照れたように目を逸らしながら、次の修理道具を手に取った。

 その日、機関室の片隅に貼られた小さなメモにはこう書かれていた。
 「仕事は無言で語れ。でも、見てる人はちゃんといる」
 誰が書いたのかは不明だった。
 でも、そこに込められた敬意だけは、確かに誠へ向いていた。

(第14章 完)