ラウンジの照明は、やわらかな橙色を帯びていた。
航海十三日目、日没後のコーヒーブレイクタイム。
航海の緊張と疲労が積み重なりはじめたこの時期、誰もが静かに息を抜きたくなっていた。
「でさ……知ってる? この船、過去に一度だけ、戻ってこなかった観測員がいるらしいよ」
紅茶を片手に、柔らかな声でそう語ったのは、彩木絢香だった。
黒のカーディガンに、濃紺のタートル。
物腰は落ち着いているのに、どこか舞台役者のような“人を惹きつける間”を持っている。
「戻ってこなかった……って、それ、どういう……」
にこが恐る恐る訊ねると、絢香は芝居がかった仕草で首を傾ける。
「記録には残ってない。でも、ある航海日誌だけが密かに語ってるの。
“彼は船に戻らなかった。けれど、海は穏やかだった”──ってね」
ラウンジの空気が、すっと引き締まる。
誰かが冗談にしたそうに笑いかけるが、声は出ない。
「ほら。こういうとき、嘘だってわかってても、少しだけ信じたくなるでしょう?」
宗一郎が苦笑する。
「また始まったな、彩木さんの“船怪談”シリーズ。で、今回はオチあるんですか?」
「ないほうが想像できて、怖くない?」
絢香は涼しい顔で言った。
「嘘ってね、ちゃんと空気を読むための道具でもあるの。
正直すぎると、場が壊れちゃうこともあるから」
その言葉に、にこがふと目を見張る。
“嘘は苦手”な自分とは対極にいる彼女の言葉が、なぜかすんなり心に入ってきたのだ。
そして──
その“作り話”の効果は、じわじわと現れはじめていた。
数分前まで、誰もが疲れのせいで黙り込んでいたラウンジに、笑い声が戻ってきていたのだ。
奏太がそっとつぶやく。
「……嘘かもしれないけど、効果は“本物”なんだな」
それは、彼の中にあった“真実至上主義”に、静かな波紋を投げかけていた。
夜も更け、ラウンジの灯が落とされるころ。
絢香はひとりでカップを片づけながら、ふとポケットの中の小さなメモ帳を取り出した。
そこには、いま語った“怪談”の原案が、端正な文字で記されていた。
実はそれは、ずっと以前から準備していた“ラウンジ用の緊張緩和スクリプト”だった。
「本当のことなんて、あとでいくらでも明かせる。
でも、今この場に必要なのは、“話せる空気”だから」
彼女は、自分の話が誰かを笑わせたり、気を緩めさせたりする瞬間を、
何よりも大切にしていた。
そこへ、健司が現れる。
「さっきの話……お見事。さすがだな。緊張、ほどけてた」
「ええ。でも信じてくれたら困るから、しばらくしたら“あれ、嘘です”ってばらす予定」
「その頃には、誰も気にしてないさ。効いた薬の成分なんて、あとで調べる人はいない」
絢香は、少しだけ笑った。
「……嘘って、ほんとはとても正直なんです。
その人が何を恐れてて、何を守りたいかが、まっすぐ出ちゃうから」
“私は、本当のことよりも、必要なことを話したい”
それが絢香の中にある確固たる美学だった。
彼女が書き上げたスクリプトの最後の一行には、こう記されていた。
「緊張が緩んだとき、人は初めて本音を探しにいける」
虚構という名の灯が、静かにラウンジの空気を包み込んでいた。
(第13章 完)
航海十三日目、日没後のコーヒーブレイクタイム。
航海の緊張と疲労が積み重なりはじめたこの時期、誰もが静かに息を抜きたくなっていた。
「でさ……知ってる? この船、過去に一度だけ、戻ってこなかった観測員がいるらしいよ」
紅茶を片手に、柔らかな声でそう語ったのは、彩木絢香だった。
黒のカーディガンに、濃紺のタートル。
物腰は落ち着いているのに、どこか舞台役者のような“人を惹きつける間”を持っている。
「戻ってこなかった……って、それ、どういう……」
にこが恐る恐る訊ねると、絢香は芝居がかった仕草で首を傾ける。
「記録には残ってない。でも、ある航海日誌だけが密かに語ってるの。
“彼は船に戻らなかった。けれど、海は穏やかだった”──ってね」
ラウンジの空気が、すっと引き締まる。
誰かが冗談にしたそうに笑いかけるが、声は出ない。
「ほら。こういうとき、嘘だってわかってても、少しだけ信じたくなるでしょう?」
宗一郎が苦笑する。
「また始まったな、彩木さんの“船怪談”シリーズ。で、今回はオチあるんですか?」
「ないほうが想像できて、怖くない?」
絢香は涼しい顔で言った。
「嘘ってね、ちゃんと空気を読むための道具でもあるの。
正直すぎると、場が壊れちゃうこともあるから」
その言葉に、にこがふと目を見張る。
“嘘は苦手”な自分とは対極にいる彼女の言葉が、なぜかすんなり心に入ってきたのだ。
そして──
その“作り話”の効果は、じわじわと現れはじめていた。
数分前まで、誰もが疲れのせいで黙り込んでいたラウンジに、笑い声が戻ってきていたのだ。
奏太がそっとつぶやく。
「……嘘かもしれないけど、効果は“本物”なんだな」
それは、彼の中にあった“真実至上主義”に、静かな波紋を投げかけていた。
夜も更け、ラウンジの灯が落とされるころ。
絢香はひとりでカップを片づけながら、ふとポケットの中の小さなメモ帳を取り出した。
そこには、いま語った“怪談”の原案が、端正な文字で記されていた。
実はそれは、ずっと以前から準備していた“ラウンジ用の緊張緩和スクリプト”だった。
「本当のことなんて、あとでいくらでも明かせる。
でも、今この場に必要なのは、“話せる空気”だから」
彼女は、自分の話が誰かを笑わせたり、気を緩めさせたりする瞬間を、
何よりも大切にしていた。
そこへ、健司が現れる。
「さっきの話……お見事。さすがだな。緊張、ほどけてた」
「ええ。でも信じてくれたら困るから、しばらくしたら“あれ、嘘です”ってばらす予定」
「その頃には、誰も気にしてないさ。効いた薬の成分なんて、あとで調べる人はいない」
絢香は、少しだけ笑った。
「……嘘って、ほんとはとても正直なんです。
その人が何を恐れてて、何を守りたいかが、まっすぐ出ちゃうから」
“私は、本当のことよりも、必要なことを話したい”
それが絢香の中にある確固たる美学だった。
彼女が書き上げたスクリプトの最後の一行には、こう記されていた。
「緊張が緩んだとき、人は初めて本音を探しにいける」
虚構という名の灯が、静かにラウンジの空気を包み込んでいた。
(第13章 完)



