風は、変わっていた。
 深夜の《ヴァリアント》、見張り台。
 当番に入っていた美紗は、冷えた空気を顔で感じながら双眼鏡を握りしめていた。
 「……風向き、予報と違う」
 誰に言うでもなくつぶやき、すぐに備え付けの風速計を確認する。
 ──異常なし。計測値は、上層データと一致していた。
 だが、彼女は納得していなかった。
 “肌が覚えている風”と、“機械が出す数値”に、わずかなズレがある。
 ほとんどの人間なら気づかないだろう。けれど、美紗は違った。
 ──手で、目で、五感で得たものだけが、信じられる。

 「異常風が来るかも。観測記録、追加で取る」
 そうメモを残すと、彼女は風速計の“手動計測器”を取り出して、再度確認を始めた。
 デジタルではなく、アナログの針と、風を受ける回転羽で測る旧式の道具。
 「数字が合わないなら、機械を疑え。私は自分を疑わない」
 それが彼女の信条だった。
 過去に一度、それで痛い目を見たことがある。
 だが、だからこそ揺るがなかった。

 その時、通信室からコールが入った。
 『夜番班、こちらブリッジ。風速、正常範囲と確認。特別な対応は必要なし』
 彼女は答えない。
 手の中の風速計の針が、わずかに上を指したのを見て、即座に行動した。
 「避雷索、仮展開。電圧誤作動の前に」
 命令ではない。独断だった。
 でも、美紗は迷わなかった。今この瞬間、信じられるのは“自分だけ”だと、心から思っていたから。

 10分後、突風が吹いた。
 遠雷が走り、空気が軋むように揺れた。
 見張り台の警報が遅れて鳴り始める。

 風が荒れたのは、ほんの20分ほどだった。
 雷雲の端がかすめただけ──気象チームはそう記録するだろう。
 だが、見張り台の避雷索が仮展開されていなければ、
 そのとき作動していた電磁機器の一部はショートしていた可能性が高い。
 それが判明したのは、夜明け直前だった。

 「仮展開のログ、誰が……?」
 健司がそう呟くと、通信室からにこが資料を持って現れた。
 「綿貫さんじゃありません。見張り台の手動記録、花森さんの名前が残ってます」
 「……あの美紗が、独断で?」
 「はい。風速のズレを手動で検出して、予報無視して動いたみたいです」

 その場の全員が一瞬、黙った。
 彼女の性格は、すでに知れ渡っている。
 妥協せず、柔軟でもない。だが、筋を通す。
 そして今回、それが皆を守ったのだった。

 昼前、見張り台にて。
 健司が顔を出すと、美紗はすでに通常勤務に戻っていた。
 「……俺だったら、システム信じて動かなかったかもな」
 「なら、事故だったと思います」
 言い方はきつい。でも、その目に嘘はなかった。

 「頑固なだけで、救われることもあるんだな」
 健司がぼそりとつぶやくと、美紗はふと、視線をずらした。
 「……信じたいんです。自分の判断を、誰よりも。
  でなきゃ、怖くて何もできませんから」

 その言葉に、健司は深く頷いた。
 頑なさの裏にあるのは、傲慢ではなく、“怖さ”だったのだ。
 誰かの信頼を得ようと思っていたわけではない。
 ただ、自分だけは、自分を疑わないでいたかった。

 その夜、見張り台の手すりには、誰かが小さく書いた落書きが残されていた。
 「花森風速、精度100%」
 誰が書いたのかは、誰も言わない。
 でもそれは、確かに“信頼”のサインだった。

(第11章 完)