夜の甲板は、真っ黒だった。
 星も月も隠れた空の下、永遠は一人、欄干にもたれていた。
 足元に缶コーヒー。手には吸わないタバコ。
 火もつけずにただ持っているだけ──彼の癖だった。
 「……はぁ、つっまんねえ」
 吐き出された言葉は、誰にも向けられていない。
 けれど、風だけがそれを真っ直ぐにさらっていく。

 永遠はわかっていた。
 自分が好かれていないわけじゃない。
 ただ、“面倒そう”とか、“何を考えてるかわからない”とか、そういうふうに見られているのは、わざとだ。
 人に深入りされるのは、怖い。
 誰かに本気で心配されたら、きっとその優しさに応えられないから。
 だから、先に“悪い顔”をする。
 冗談めかして毒を吐く。
 「俺なんか」と言って、他人の好意を受け取らない。
 それが彼にとっての防衛線だった。

 「……いたいた」
 背後から声がした。
 振り向かなくてもわかった。千紘だ。
 「なんでそんなところにいるの? ねえ、夜風けっこう冷たいよ」
 「おまえこそ、こんな時間に出歩いて……不審者かよ」
 「違いますぅ。永遠くんが寂しそうだったから、来ただけだよ」
 「は?」
 言葉を失う。
 あっけらかんとした、その明るさ。

 「今日の展示、見てくれたよね?」
 千紘は欄干の隣に立ち、夜の海を見下ろす。
 「永遠くんの測定、すごく正確だった。最初にデータがきっちり入ると、後の処理も楽になるんだよ」
 「……あれは、ただ習慣でやってるだけ」
 「それでも、すごいって思ったから、すごいって言ったの」

 永遠は、言葉に詰まった。
 あのグラフ展で、確かに自分のデータに“すごい”という吹き出しが添えられていた。
 誰かにそう言われたのは、いつ以来だっただろう。
 「べつに……喜んでなんか、ねえよ」
 「うん、知ってる。でも、怒ってもないでしょ?」
 永遠は口をつぐんだ。
 “怒ってない”
 ──確かにその通りだった。

 「ねえ、永遠くんって……たぶん、他人に嫌われたいんじゃなくて、期待されたくないんだよね」
 千紘の声は、やさしかった。
 「誰かに期待されたら、応えなきゃって思っちゃうもんね。しんどいよね、それ」
 永遠は、小さく笑った。
 「おまえ、なんでそんなに……他人のことばっか見てんだよ」
 「だって、見えちゃうんだもん。顔に出てるよ、永遠くん」
 「……俺、そんなに顔に出てるか?」
 「うん。たぶん、仲間の中でいちばん表情に出る人だと思う」

 それは、彼が一番言われたくないことであり──
 一番、言ってほしかったことでもあった。

 しばらく、二人は黙って海を見ていた。
 夜の波が、ふわりふわりと船を揺らす。
 寒くも、怖くもない。だけど少しだけ、切ない。

 「……もし、あの島が本当に“記憶を映す”んだったらさ」
 「うん?」
 「俺、たぶん……嫌な顔してる自分ばっかり、見せられる気がする」
 「それでもいいじゃん。それが“本当の顔”なら」
 「……でも、ほんとはさ」
 永遠は、誰にも聞かせたことのない声で言った。
 「……誰かに“ありがとう”って言われるの、そんなに嫌いじゃない」

 千紘は、うれしそうに笑った。
 夜の風が、その笑顔を柔らかく揺らした。

 この船に乗って以来、初めて永遠は思った。
 “黙って隠れてる”だけじゃ、伝わらないものもある。
 偽悪をまとっていても、誰かがそれを見抜いてくれるなら──
 それは、きっと“希望”だ。

 夜が深まり、船の灯が甲板を照らす。
 その明かりの中で、二人の影が、少しだけ近づいていた。

(第10章 完)