波止場に吹く潮風は、いつもと変わらない。
それでも奏太の手の中で、書類の角が震えていた。
六月初旬。場所は横浜港第七ドック。
湾岸の空は雲に覆われ、薄灰色の朝焼けがじんわりと港の倉庫群を染めていた。
「……あの人が、本当にここへ来たのか」
自分に言い聞かせるように呟いて、奏太はもう一度、手の中の資料に視線を落とす。
海洋文化研究機構主導・特殊無人島観測プロジェクト「Project-GLA」
その最終フェーズにおける調査員の一人として、自分の名前が載っていた。
何枚にも重ねられた書類の最上部に、一通の招待状。
封筒の裏には、今は亡き父・水嶋陸の筆跡で“行け”と書かれていた。
艀に近づくにつれ、巨大な調査船《ヴァリアント》の全容が視界に現れる。
船体は鋼鉄製で、海上気象観測用のレーダーとドローンポートを備えた最新型。
そしてそのブリッジ下の白い外壁には、なぜか、虹色に反射する奇妙な模様が浮いていた。
朝日を受けて七色の光がちらつき、まるで生き物のようにゆらめく。
「……これが“玻璃の孤島”に触れた痕、ってやつか」
先行チームの報告によれば、この模様は《GLA島》から持ち帰った観測機に付着したもので、
化学的にも物理的にも解明されていない“反応体”らしい。
だが、奏太の中でそれは別の意味を持っていた。
父が遺したメモに書かれていた、“記憶を映す虹”という言葉と重なっていたからだ。
艀が係留され、いよいよタラップへと足を運ぶ。
周囲の誰もがまだ見ぬ孤島に対し好奇の眼差しを向けるなか、
奏太の足取りだけは、どこか確信に満ちていた。
「父さん。俺は、あなたの言葉を――信じてるよ」
そして、誰にも言わず、心の中だけで続ける。
“あの島に、あの日の本当が残ってるって、信じたいんだ”
乗船チェックは事務的に進んだ。
奏太はひと通りの安全講習を受け、個室へ案内される前に書類を提出する。
立ち会ったのは、中年の職員と白衣を羽織った若い技術員。
だがその視線は、明らかに奏太の肩書に疑問を抱いているようだった。
「水嶋奏太さん……ですね? ご専門は?」
「文化情報工学です。父は……水嶋陸でした」
その名前を口にした瞬間、白衣の技術員が一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに視線を落とし、「なるほど」とだけ短く答える。
「お父様は、“玻璃の記憶仮説”の提唱者でしたね。非科学的と切り捨てられた――」
「……でも、俺は信じています。少なくとも“映写現象”は、説明のしようがある」
言葉の端にわずかな熱を含ませてしまった。
相手が苦笑し、横の職員と視線を交わす。そう、またこれだ。
父の研究を継ぐと言えば、必ず返ってくるのは同情と侮りの混合物。
科学の名を借りた、理知的な無関心。
個室に通されてから、奏太は静かに荷物を整理した。
部屋は思いのほか快適で、机には小型端末と筆記具。
だが、一番の宝物はスーツケースの底にある。
一冊の、黒革の研究ノート。
「父さんが最後に書きかけてた……“島の最終層に関する仮説”。」
ページをめくると、走り書きの数式とスケッチ。
そして、その合間に何度も現れる奇妙な言葉──
《図書館では、記憶が順に棚に並ぶ》
初めて読んだときは、詩的な比喩だと思っていた。
だが、後に“映像化される記憶”という仮説と照らし合わせたとき、
これは島そのものが“記憶を格納する構造”を持つ可能性を示していると気づいた。
「Project-GLAの第4調査隊……乗船完了。あと何人、集まるんだ?」
少しして甲板に出た奏太は、タラップに続々と現れる人影を見つける。
その一人ひとりが、のちに自分の人生を揺るがす存在になるとは、まだ知らなかった。
まだ、誰も知らなかった。
潮の匂いに混じって、船体の鉄の香りが鼻をかすめる。
濃い雲を背負いながら、《ヴァリアント》は静かにエンジンを始動させる準備を整えていた。
「……やっと、始まるんだな」
呟いたそのとき、背後から足音がした。
「乗船者の方ですか? 確認させていただけますか」
淡い声だった。振り向くと、麦わら帽を被った女性がこちらを見ていた。
制服の上にカーディガンを羽織り、小さな端末を抱えている。
「あ、はい。水嶋奏太です。名簿に載ってるかと……」
「ああ、確認できました。ありがとうございます」
そう言って軽く会釈する彼女の名札には、“二階堂にこ”とあった。
彼女は、嘘がつけない人だった。
そのことに奏太が気づくのは、ずっと後のことになる。
その日、夕暮れの甲板には、何人もの足音が交差した。
実直な整備士、控えめな観測士、よく笑う医務員、無表情な通信士──
それぞれが、それぞれの動機を胸にこの船に乗った。
だがその誰もが、まだ知らない。
玻璃の孤島が、自らを“記憶の迷宮”として迎えることを。
そして、そこに記された“図書館の鍵”が、誰か一人の心の奥底に眠っていることを。
エンジンの回転音が高まる。
汽笛が空を裂くように鳴り響き、ついに《ヴァリアント》は出航した。
奏太は、ポケットの中で拳を握る。
その手の中には、父の遺した小さな銀のメモリ──“開かれなかった最終ファイル”が握られていた。
「……父さん。この船で、答えを見つけるよ」
すべては、玻璃の孤島にある。
記憶と後悔と、そして希望のすべてが。
(第1章 完)
それでも奏太の手の中で、書類の角が震えていた。
六月初旬。場所は横浜港第七ドック。
湾岸の空は雲に覆われ、薄灰色の朝焼けがじんわりと港の倉庫群を染めていた。
「……あの人が、本当にここへ来たのか」
自分に言い聞かせるように呟いて、奏太はもう一度、手の中の資料に視線を落とす。
海洋文化研究機構主導・特殊無人島観測プロジェクト「Project-GLA」
その最終フェーズにおける調査員の一人として、自分の名前が載っていた。
何枚にも重ねられた書類の最上部に、一通の招待状。
封筒の裏には、今は亡き父・水嶋陸の筆跡で“行け”と書かれていた。
艀に近づくにつれ、巨大な調査船《ヴァリアント》の全容が視界に現れる。
船体は鋼鉄製で、海上気象観測用のレーダーとドローンポートを備えた最新型。
そしてそのブリッジ下の白い外壁には、なぜか、虹色に反射する奇妙な模様が浮いていた。
朝日を受けて七色の光がちらつき、まるで生き物のようにゆらめく。
「……これが“玻璃の孤島”に触れた痕、ってやつか」
先行チームの報告によれば、この模様は《GLA島》から持ち帰った観測機に付着したもので、
化学的にも物理的にも解明されていない“反応体”らしい。
だが、奏太の中でそれは別の意味を持っていた。
父が遺したメモに書かれていた、“記憶を映す虹”という言葉と重なっていたからだ。
艀が係留され、いよいよタラップへと足を運ぶ。
周囲の誰もがまだ見ぬ孤島に対し好奇の眼差しを向けるなか、
奏太の足取りだけは、どこか確信に満ちていた。
「父さん。俺は、あなたの言葉を――信じてるよ」
そして、誰にも言わず、心の中だけで続ける。
“あの島に、あの日の本当が残ってるって、信じたいんだ”
乗船チェックは事務的に進んだ。
奏太はひと通りの安全講習を受け、個室へ案内される前に書類を提出する。
立ち会ったのは、中年の職員と白衣を羽織った若い技術員。
だがその視線は、明らかに奏太の肩書に疑問を抱いているようだった。
「水嶋奏太さん……ですね? ご専門は?」
「文化情報工学です。父は……水嶋陸でした」
その名前を口にした瞬間、白衣の技術員が一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに視線を落とし、「なるほど」とだけ短く答える。
「お父様は、“玻璃の記憶仮説”の提唱者でしたね。非科学的と切り捨てられた――」
「……でも、俺は信じています。少なくとも“映写現象”は、説明のしようがある」
言葉の端にわずかな熱を含ませてしまった。
相手が苦笑し、横の職員と視線を交わす。そう、またこれだ。
父の研究を継ぐと言えば、必ず返ってくるのは同情と侮りの混合物。
科学の名を借りた、理知的な無関心。
個室に通されてから、奏太は静かに荷物を整理した。
部屋は思いのほか快適で、机には小型端末と筆記具。
だが、一番の宝物はスーツケースの底にある。
一冊の、黒革の研究ノート。
「父さんが最後に書きかけてた……“島の最終層に関する仮説”。」
ページをめくると、走り書きの数式とスケッチ。
そして、その合間に何度も現れる奇妙な言葉──
《図書館では、記憶が順に棚に並ぶ》
初めて読んだときは、詩的な比喩だと思っていた。
だが、後に“映像化される記憶”という仮説と照らし合わせたとき、
これは島そのものが“記憶を格納する構造”を持つ可能性を示していると気づいた。
「Project-GLAの第4調査隊……乗船完了。あと何人、集まるんだ?」
少しして甲板に出た奏太は、タラップに続々と現れる人影を見つける。
その一人ひとりが、のちに自分の人生を揺るがす存在になるとは、まだ知らなかった。
まだ、誰も知らなかった。
潮の匂いに混じって、船体の鉄の香りが鼻をかすめる。
濃い雲を背負いながら、《ヴァリアント》は静かにエンジンを始動させる準備を整えていた。
「……やっと、始まるんだな」
呟いたそのとき、背後から足音がした。
「乗船者の方ですか? 確認させていただけますか」
淡い声だった。振り向くと、麦わら帽を被った女性がこちらを見ていた。
制服の上にカーディガンを羽織り、小さな端末を抱えている。
「あ、はい。水嶋奏太です。名簿に載ってるかと……」
「ああ、確認できました。ありがとうございます」
そう言って軽く会釈する彼女の名札には、“二階堂にこ”とあった。
彼女は、嘘がつけない人だった。
そのことに奏太が気づくのは、ずっと後のことになる。
その日、夕暮れの甲板には、何人もの足音が交差した。
実直な整備士、控えめな観測士、よく笑う医務員、無表情な通信士──
それぞれが、それぞれの動機を胸にこの船に乗った。
だがその誰もが、まだ知らない。
玻璃の孤島が、自らを“記憶の迷宮”として迎えることを。
そして、そこに記された“図書館の鍵”が、誰か一人の心の奥底に眠っていることを。
エンジンの回転音が高まる。
汽笛が空を裂くように鳴り響き、ついに《ヴァリアント》は出航した。
奏太は、ポケットの中で拳を握る。
その手の中には、父の遺した小さな銀のメモリ──“開かれなかった最終ファイル”が握られていた。
「……父さん。この船で、答えを見つけるよ」
すべては、玻璃の孤島にある。
記憶と後悔と、そして希望のすべてが。
(第1章 完)



