「凪ちゃんと一緒に行きたいとこがあるんだ。今から一緒に行かない?」
「……え? 今から?」
 日曜日の早朝、凪人は蓮に叩き起こされた。
 蓮と暮らし始めて、一カ月半が経とうとしている。もうすぐ、蓮の誕生日だ。
 その顔は子供のようにキラキラと輝いているから、もしかしたら何かを企んでいるのかもしれない。
「うん。今から。でも、やっぱり外はまだ怖い?」
「……外か……」
「大丈夫だよ、怖くない。俺がずっと傍にいるから」
「……じゃあ、行く。俺、行ってみたい」
「うん、行こう」
 蓮が凪人を見つめて微笑んだ。


「でも蓮君! 自転車で、なんて聞いてない!」
「あははは! だって仕方ないじゃん。俺ら二人とも車の免許持ってないんだもん!」
「もー! 引き籠もりの体力を舐めるなよぉ!」
 蓮から移動手段は自転車だと聞いていたから、てっきり近所に行くものだと思っていた。しかし、もうアパートを出発して一時間くらいになる。
 どうやら山に向かっているらしく、どんどん道は険しくなるし、酸素が薄くなってきている気もする。まるで、エベレストの頂上を目指している気分だ。
「凪ちゃん、運動不足なんだよ」
「当たり前じゃん。二カ月以上引き篭ってたんだから」
「よかったね、運動のチャンスがあって」
「だからっていきなりハード過ぎるよ」
「でも気持ちいいね!」
 肩で息をしている凪人になんてお構いなしに、蓮はぐんぐん自転車を漕いで行ってしまう。凪人は置いていかれないように必死だった。
「はぁ、はぁ……ねぇ……蓮君……はぁ……どこに向かってんの⁉」
「もう少しだから……はぁはぁ……頑張って!」
「しんどいよぉ‼」
「もう少し! 凪ちゃんも知ってる場所だよ。頑張って!」
「もう、無理ー‼」
 凪人の絶叫が、山に響き渡った。

◇◆◇◆

 凪人の体力が底を尽こうとした頃、うっそうと茂っていた林が途切れ、目の前に広場が広がった。薄暗い林から一気に明るい場所に出た凪人は、あまりにも日差しが眩しくて目を細める。ここが、今まで必死に登っていた山の頂上。
「凪ちゃん、着いたよ」
 嬉しそうに笑う蓮が見つめる先には――。
「あれ、何の建物? 誰かの家……じゃないよね?」
「違うよ。あれは教会」
 そう言うと自転車を開けた場所に停めて、「あー! 疲れた」なんて大きく伸びをしている。
 ――教会……? もしかして、あの時の……。
 凪人の眠っていた記憶が、少しずつ呼び起こされる……そんな感覚に包まれた。


「早くおいで」
 蓮が凪人に向かって手招きをしている。
 秋の日差しに蓮の髪がキラキラ光っていて、とても綺麗だ。自分にはない‪魅力をもつ蓮を見ていると、どんどん鼓動が速くなってくる。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ――こんなにも立派な‪蓮‬を、自分だけのものにしたい……。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 いつからか、そんな独占欲を蓮に対して抱いていた。
 今は素直に、蓮とずっと一緒にいたいと思える。
「待って、蓮君」
「早くおいで。凪ちゃん」
 自分に向かい微笑む蓮の元に、凪人は夢中で駆け寄った。
 凪人は胸をドキドキさせながら、蓮の腕に飛びつく。いつの間にか、疲れなんて吹き飛んでしまっていた。


 二人で木漏れ日の差し込む広場を歩く。
「あぁ、眩しい!」
 久し振りに浴びる日差しが眩しくて、思わず手で目を覆う。でもすごく気持ちがいい。
 広場を吹き抜ける風も、可愛らしい声で鳴く鳥の声も、どこからか香る甘い花の香りも……その全てが凪人の心を震わせた。
「凪ちゃん、眩しい?」
「ううん。大丈夫だよ」
 過保護な蓮が心配そうに凪人の顔を覗き込む。いつも自分のことを心配してくれる蓮。いつの間にか、凪人にはなくてはならない存在へとなっていた。
「あ、凪ちゃん髪に葉っぱがついてるよ?」
「え? 取ってよ」
「わかった。じゃあ近くに来て」
「うん」
 凪人が蓮のほうに顔を近づけた瞬間。


 ――え?


 蓮の吐息が頬にかかって、一気に距離が縮んだ。蓮の綺麗な瞳がそっと閉じられて、なんだろう……と思う間もなく、凪人の唇に蓮の唇が重ねられた。
「あ……」
「ほら、凪ちゃん。とれたよ」
 その柔らかくて温かな蓮の唇は、すぐに離れていってしまう。蓮にキスをされたのだと気づくまでに、少しだけ時間がかかってしまった。
 頬が一気に熱くなり、鼓動がどんどん速くなる。恥ずかしくて、涙が溢れてきそうだった。
「そんな顔しないでよ」
「……ど、どういうこと?」
「それ以上のことがしたくなるから」
 自分と同じように顔を真っ赤にした蓮に手を握られて、二人は再び歩き出した。


「凄く古い教会だね」
「うん。でもさ、綺麗な教会でしょ?」
「とっても綺麗……」
 その教会はレンガで造られた小さな教会だった。差し込む日差しで大きな窓にはめられているステンドグラスがキラキラと輝き、教会の床に綺麗な模様を描いている。
 鳥のさえずりと、木々が風で揺れる音しか聞こえてこない。そんな静かな教会だった。
「入って大丈夫なの?」
「大丈夫。前もって連絡しといたから」
「連絡って?」
「ん? 結婚式を挙げる予定があるから、見学させてくださいって」
「……け、結婚式?」
「うん。ねぇ、凪ちゃん覚えてる? この教会のこと」
 教会の重たい扉を開けると、目の前には祭壇が広がっている。その祭壇へと続いているのは真っ赤な絨毯。そう、バージンロードだ。


「覚えてる?」
 もう一度確認するように問いかけられた。
「……うん、覚えてるよ。小学一年生の遠足で迷子になった俺は、この教会に辿り着いたんだ」
 あまりの懐かしさに凪人は目を細めた。
「俺がトカゲを追いかけているうちに、みんなからはぐれちゃって……。この教会で泣いていたら、蓮君がきてくれたんだよね」
「そうそう。あの時は俺も本当に焦ったなぁ。急に凪ちゃんがいなくなっちゃったんだもん。先生たちも大騒ぎでさ」
 記憶の箱がそっと開き、懐かしい思い出が一気に蘇ってくる。その甘酸っぱい感覚に頬が熱くなった。

◇◆◇◆

「みんな、どこにいるの?」
 綺麗に光るトカゲを夢中で追いかけていた凪人が気付いたときには、知らない場所に立っていた。
 強い不安を感じた凪人が大きな声を上げても、誰の返事も返ってこない。
「蓮君……先生……」
 どうしていいかわからず、大粒の涙がポロポロと頬を伝った。「いつか皆に会えるだろう」と、凪人は必死に歩き続ける。不安で、怖くて……歩みを進める足が、ガタガタと震えた。
 疲れ果てた凪人が、一人辿り着いたのは、このレンガ造りの小さな教会。辺りは暗くなりはじめているし、気温も大分下がってきている。
「入っても大丈夫かな」
 鍵のかかっていない扉を恐る恐る開けた凪人は、その教会のあまりの美しさに息を呑んだ。
「わぁ……すごく綺麗……」
 最後の力を振り絞り、赤い絨毯の上を歩く。ずっと一人で歩き続けていた凪人は疲れ切っていた。祭壇の前に崩れ落ちるように蹲る。
「蓮君……」
 一人ぼっちで怖くて、寂しくて……。早く温かい自宅へと帰りたかった。
「蓮君、助けて……」
 ポロポロと頬を伝う涙が、音もなく真っ赤な絨毯に吸い込まれていった。


 突然教会の扉が勢いよく開く音に、凪人は目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。教会に冷たい風が吹きこんできて、凪人の体がビクッと跳ね上がった。
 ――誰が来たんだろう……。
 恐怖から全身が強張り、声さえ出すことができない。
 ――嫌だ、怖い‼
「凪ちゃん!」
「え?」
 そんな凪人の元に駆け付けてくれたのが、蓮だった。


「凪ちゃん! 大丈夫?」
「蓮君……蓮君! ふぇぇん……!」
「どうしたの? どこか痛い?」
「怖かった。独りぼっちで怖かったの……」
「ごめんね、助けに来るのが遅くなって。本当にごめんね」
 蓮が悪いわけではないのに、蓮まで泣き出してしまう。「ごめんね」と繰り返し呟きながら、凪人を抱き締めてくれた。
 それでも、凪人は心の底から安堵する。蓮が自分を助けに来てくれたことが、嬉しくて、ホッとして……涙が再びボロボロと溢れ出した。
「これからは、絶対に俺が凪ちゃんを守ってみせるから」
「蓮君……」
「俺、凪ちゃんを守れるくらい強い男になるから。だから……」
 たくさんの涙を浮かべる蓮。きっと、突然いなくなってしまった凪人を、必死に探してくれたのに違いない。
「だから、大人になったら結婚しよう? この教会で結婚式を挙げよう?」
「……この教会で?」
「うん。この教会なら、俺、場所覚えたから。もう迷わないもん」
 そう笑う蓮の笑顔を見ると、恐怖心が薄らいでいく。蓮の存在がひどく頼もしく感じられた。
「うん、わかった。俺、大きくなったら蓮君と結婚する」
「本当? 俺のお嫁さんになってくれるの?」
「俺、蓮君のお嫁さんになりたい」
「やったぁ! 嬉しいなぁ」
 涙と鼻水でグシャグシャになりながら、指切りをした。

◇◆◇◆

 あの日のことを……凪人は鮮明に思い出す。
 あの頃と、蓮は全く変わっていない。一途で、真っ直ぐで……キラキラと輝いて見える。
 今だって、こうやって凪人のことを守ってくれているのだから。


「俺さ、小さい頃母親によく読んでもらった絵本があったんだ」
「絵本?」
「うん。昔々あるところに、とても可愛らしいお姫様がいました。しかし、若く可愛らしいお姫様のことをよく思わない継母(ままはは)が、そのお姫様を教会に閉じ込めてしまったのです」
「……教会、に……」
「信じていた継母が自分を教会に閉じ込めたことにショックを受けたお姫様は、悲しみのあまり、全ての窓を閉め切って泣いて過ごしました。そんなお姫様を薄暗い教会から助け出してくれたのは、若くて見目麗しい王子様。二人は運命の相手だったのです。二人は王子様の国へと帰り、末永く幸せに暮らしましたとさ」
 蓮が懐かしそうに眼を細めながら微笑む。その表情が眩しくて、凪人の胸が締め付けられた。


「だからね、この教会で凪ちゃんを見つけたとき、俺たちは運命の相手だって感じたんだ。あの絵本の、お姫様と王子様のように」
「運命の、相手……」
「それにあの日、俺は生まれて初めて、心の底から他人を愛しいと感じた。あのときはまだ子供だったけど、子供なりに『俺が凪ちゃんを守るんだ』だって……そう思ったんだ」
「蓮君……」
「絵本の中のお姫様じゃないけど、凪ちゃんは繊細で、でも懸命に生きている。久しぶりに凪ちゃんと会ったとき、この教会で泣いていた凪ちゃんと、真っ暗なアパートの部屋で泣いていた凪ちゃんがダブって見えたんだ。そのとき俺は誓った。やっぱり、凪ちゃんは俺が守るんだって」
 そう言いながら、照れくさそうに鼻の頭を掻く蓮。
 どこまでも一途な蓮の言葉に、凪人は胸がいっぱいになってしまった。


「おいで、凪ちゃん」
 蓮に手を引かれ、ゆっくりとバージンロードの上を歩く凪人。鼓動が少しずつ高鳴っていく。そして、二人は神様が見守る祭壇の前で歩みを止めた。
 ――これじゃあまるで、結婚式みたいだ。
 凪人の頬が熱くなって、体が強張っていくのを感じた。
「凪ちゃん、俺は凪ちゃんが大好きだ。だから、俺と結婚してほしい」
「蓮君……俺も、蓮君が、好き……」
 ずっと言いたくても言えなかった言葉が、絡み合った糸がスルッと解けるように口から零れる。ずっと凪人は蓮に恋焦がれてきた。ようやく、素直になれた瞬間。
「ありがとう、凪ちゃん。今の日本では、俺たちは結婚できないかもしれない。でも俺は、凪ちゃんと一緒に日本を飛び出してもいいと思ってる。俺、凪ちゃんと結婚できるなら、なんだってするよ。だから、結婚しようね」
「うん」
 蓮がそっと目を閉じたから、それに倣って凪人も目を閉じる。そして二人は触れるだけのキスをした。
 それは甘くて温かくて……心が蕩けていく感覚。
 しばらくの間、唇を啄み合って、後ろ髪を引かれながらも体を離した。


「ねぇ、凪ちゃん。これ、受け取ってもらえるかな?」
 蓮が顔を赤らめながら、ポケットから小箱を取り出す。その箱を開けて凪の前へと差し出した。
「これって……」
「そう。指輪だよ」
 蓮が持つ小箱の中には、日差しを浴びてキラキラと輝く指輪がそっと置かれている。その指輪を見た凪人の心が痛いくらい締め付けられた。
 すごく嬉しいのに、どうしたらいいのか、どんな言葉を発したらいいのかがわからない。凪人は涙が滲む瞳で蓮を見つめた。
「ねぇ、こんなに素敵な指輪を貰っちゃっていいの?」
「うん。俺、これを凪ちゃんにプレゼントしたくて、頑張ってバイトしてたんだもん」
「……ありがとう」
 その銀色に輝く指輪の中央には十字架の形をした宝石が刻まれている。アクセサリーに興味のない凪人にも、この指輪は高価だということがわかってしまった。
 今まで、誰かに指輪を送られたことなどなかった凪人の心が熱く震える。まさかこんな素敵な教会で、指輪を送ってもらえるなんて、夢にも思っていなかったのだ。


「つけてあげようか?」
「うん。お願い……」
 蓮に指輪をつけてもらった凪人は、胸がいっぱいになってしまい涙が頬を伝う。
 蓮は躊躇うことなく、左の薬指を選んでくれた。それがたまらなく嬉しい。
 こんな蓮と恋人になれるなんて、自分はなんて幸せ者なのだろうか。胸が熱くなって、全身が幸せに打ち震えた。
「凪ちゃん、指輪似合ってるよ。よかった、サイズもぴったりで」
「本当? 嬉しい」
「うん。凪ちゃん、大好きだよ」
「俺も、蓮君が大好き」
 もう一度唇を重ね合わせた瞬間、凪人の体が一気に熱を帯びる。幸せ過ぎて胸が苦しい。涙が幾筋も頬を伝った。


 ――俺にも、王子様がきてくれたんだ……。


 もう一度口づけを交わしたとき、教会の鐘が静寂を破った。神聖なその音色は心に染み渡り、まるで神の元へと召されていくような錯覚にさえ感じられる。


 ――蓮君が好き……。


 深い口付けは肩で呼吸をするほど苦しくて、凪人は夢中で蓮にしがみつく。その瞬間、目を覆う程の眩い光が教会を包み込んだ気がした。


 ――なんて眩しいんだろう。


 凪人はうっとりと目を細める。


「蓮君、すごく気持ちい」
「ふふっ。凪ちゃん蕩けた顔している」
「うん……俺、今すごく蓮君と一つになりたいって思ってる……」
「マジで? ヤバイ……俺ももう我慢の限界だ……」
 凪人を抱き締める蓮の腕に、更に力が籠められた。
「蓮君、俺、蓮君と心だけじゃなくて体も結ばれたい……」
「凪ちゃん! 俺もう我慢しない! 行こう!」
「え? ちょっと待って蓮君⁉ どこに行くの⁉」
「待てない! 今すぐ家に帰るんだよ! 俺がどんだけ待ったと思ってんの⁉」
 蓮に引きずられるようにバージンロードを引き返す。恥ずかしくて仕方がないのに、それ以上に体が蓮を求めてしまっていた。
 早く、早く、抱き合いたい……。
 その一心だった。


 蓮が教会の扉を開くと、眩しいほどの日差しが凪人の目に差し込んでくる。どこまでも広がる青い空に、そんな空をゆっくりと流れていく雲……。
 その当たり前の風景がとても綺麗で、涙がまた溢れ出した。
「本当に……馬鹿みたいだね。こんなにも綺麗な世界から逃げていたなんて……」
 少しだけひんやりとした風が、火照った体を冷やしてくれる。
「でも俺……すごく幸せだよ」
「凪ちゃん……」
「蓮君、大好き」
「今ここでそんなに可愛いのは反則だよ。早く帰ろう。俺、凪ちゃんが欲しくて仕方がない」
「俺も、蓮君と結ばれたい……」
 そんなやり取りが恥ずかしくて、二人で顔を見合わせて笑った。


「ねぇ、蓮君。こんなにも眩しい世界を教えてくれて、ありがとう」


 誰のところにも、いつか王子様はやってくる。
 塔に閉じ込められたお姫様は、王子様とずっとずっと幸せに暮らしましたとさ……。


【END】