「え? なにそれ?」
 蓮の言葉に、凪人は思わず言葉を失う。思わず手にしていたスマホを床に落としてしまうところだった。
「だから、凪ちゃん。この前俺の知らない人がアパートの周りをウロウロしてたんだよ」
「本当に? 誰だろう? 怖いね」
「うーん、俺が思うにさ……凪ちゃんの元彼じゃない?」
「元彼?」
「そう。まだ凪ちゃんのことが諦めきれないのかもしれないね」
 先程までベッドに寝転び雑誌を読んでいた蓮が、突然何を言い出すのだ……と、凪人は思わず目を丸くした。律がアパートの周りをウロウロしているなんて、想像するだけで身の毛がよだつ。


「どちら様ですか? って声をかけたときに『なんでもない』って返事が返ってきたんだけど、その声があの時電話で聞いた声とよく似てた気がするんだよなぁ」
「じゃあ、もしかしてあの人がこの辺をウロウロしてるかもしれないの? 超怖いんだけど……」
「多分だけどね。本当にしつこい奴だなぁ」
 蓮が面白くないと言った顔で下唇を尖らせる。それから、何かを思い出したかのように突然ベッドの上から飛び起きた。
「あのさ、凪ちゃん。今度は凪ちゃんの大学に行って、直接元彼と話をしようよ!」
「元彼と、直接……」
「そう! 俺、本当は電話だけであの男が諦めるなんて思ってなかったんだ。きっと、あの男の凪ちゃんへの執着は相当なものだからね」
 それを聞いた凪は変に納得してしまう。律は、凪人が離れていったときから異常な程に自分に執着を見せていたから。
 でもきっとそれは、凪人への愛情からではなく、あの男のプライドが許さないだけだということも分かっている。
 本当は、凪人に愛情なんてないのだろう。


「元彼にちゃんと会って、凪ちゃんの口から『さよなら』って言ったほうがいい。それはあの男に凪ちゃんを諦めさせるためでもあるけど、凪ちゃんが本当に過去と決別するためでもあると思うんだ」
「でも、俺はあの人のことをなんとも思ってないよ」
「本当にそうなのかな?」
「なんだよ、それ……」
 自分はもう元彼のことをなんとも思っていないのに、蓮はそう感じていないのだろうか? 蓮の目には、凪人は未だに未練を感じているように映っているのかと思うと、悲しくなってしまった。
「俺も凪ちゃんの大学に行くから、凪ちゃんもちゃんとけじめをつけに行かない? それに、このまま引き籠ってはいなられないよ。それは凪ちゃんが一番よくわかっているはずだ」
「でも……」
「最近の凪ちゃんを見て感じるんだ。凪ちゃん、今のままじゃ駄目だって思ってるでしょう? 変わりたいって、もがいている気がするんだ。だから、俺は凪ちゃんの助けになりたいんだよ」
 蓮が凪人を見つめながら、照れくさそうに笑う。


「大丈夫だよ。俺が絶対に凪ちゃんを守るから。だから、怖くなんてないよ」
 凪人の心が、きちんとけじめをつけたいという思いと、大きな一歩を踏み出すことへの恐怖で大きく揺れる。しかし、ここで自分が何か手を打たなければ、律はいつまでも凪人に付きまとうかもしれない。
 そして、凪人は何も変わることなく、この部屋から出ることはできないだろう。
 それでも、蓮と一緒にいるようになってからは、自分の心が変化してきていることにも気づいているのだ。
 変わりたい……、そう思えるようになっていた。
「蓮君も一緒に行ってくれる?」
「勿論だよ。俺が凪ちゃんを守るから」
 顔を上げると優しい眼差しで自分のことを見つめる蓮がいる。そんな蓮を見ていると、凪人の心に勇気が込み上げてくるのを感じた。


「わかった。俺、あの人に会ってちゃんと『さよなら』って言うよ。もう俺に付きまとわないで、って」
「うん。偉いよ、凪ちゃん」
「蓮君、俺、頑張るね」
 凪人がそっと蓮に体を寄せると、優しく肩を抱いてくれた。
 本当はすごく怖い。でも蓮がそっと背中を押してくれる。蓮がいるから大丈夫だ……凪人はそう感じていた。
「あのさ、凪ちゃん。元彼の名前なんていうの?」
「え? 元彼の名前?」
 凪人がびっくりして蓮から体を離すと、不貞腐れたような顔をしている。それは駄々を捏ねる子どものような表情だ。答えた方がいいのかと一瞬躊躇ったが、凪人はそっと口を開いた。
「律さんっていうんだ」
「律?」
「そう。今四年生で、もうすぐ卒業。恋人が妊娠したって言ってたから、卒業したらすぐに結婚するんじゃないかな?」
「結婚? なんだよ、それ……」
「俺の見る目がなかったんだよ」
「そんなことない!」
 凪人の言葉に蓮が大きな声を出す。その声に凪人の体がビクンと飛び跳ねた。


「凪ちゃんは純粋に律って奴が好きだっただけだ。だからこそ、俺はそいつが許せねぇ。ちゃんとけじめをつけて、俺と幸せになればいいんだよ」
「蓮君……。あ、でも、空手は駄目だよ! 」
「空手? あははは! 凪ちゃんそんな心配してたの? 大丈夫だよ、俺だって警察のお世話にはなりなくないもん」
「ならよかった……」
 凪人がホッと胸を撫で下ろすと、蓮がケラケラと声を出して笑っている。
「ただね、律に凪ちゃんは俺のもんだ! って言いたいんだ。俺が凪ちゃんを幸せにするんだって」
「蓮君……」
「ふふっ。なんか照れくさい。今のは忘れて」
 頬を赤めながら笑う蓮に、凪人の胸が締め付けられた。


 凪人が大学に行くのは、夏休みを挟んで二カ月ぶりくらいだ。つい何カ月か前は毎日通っていた大学だったはずなのに、今では海外旅行に行くくらい勇気がいる。
「よし、行くぞ」
 凪人は蓮からもらった白いパーカーに袖を通す。「絶対凪ちゃんに似合うから!」とつい最近蓮が買ってきてくれたパーカーは、真っ白くてフードに猫の耳がついていた。
 大の男が猫の耳が付いたフードはさすがに勇気がいるけれど、このパーカーを着ているとまるで蓮が傍にいるような気がする。蓮に抱き締められているような……温かい気持ちになれるのだ。
 いつも通学の時に使っていたリュックサックを背負い、履き慣れた靴を履く。
「行ってきます」
 そう呟いてから、凪人はアパートの扉を開けたのだった。

◇◆◇◆

 久し振りに訪れた大学に、凪は圧倒されてしまう。
大学(ここ)って、こんなにも大きかったっけ……」
 思わず広いキャンパスを眺めた。
 それと同時に強い不安感に襲われる。知り合いに会って「なんで最近学校来ないの?」と聞かれることが怖い。
 だから、凪人はできるだけ目立たないよう体を縮こまらせて急いで歩く。息を殺して、広い大学のキャンパスを走り抜けた。


「はぁ。ようやく着いた……」
 凪人は太い柱に寄りかかり大きく息を吐く。夕暮れの大学には生徒の姿はまばらで、知り合いに会うことなく目的地に辿り着くことができた。
 途中見慣れたキャンパスに視線を移すと、そこはまるで魔女が住む洋館のような恐ろしい建物に見えて……強い恐怖に襲われる。凪人はそんなキャンパスから目を背けて、無我夢中で走り続けたのだった。
「蓮君、まだ来てない」
 つい先程蓮から「もうすぐ着くよ」というメールが届いた。一人でここにいると、不安で胸が圧し潰されそうだ。


 凪人が今いるのは、図書館の入り口。凪人の通う大学の図書館は、他の大学に比べると広くて参考書がたくさん置いてある。その図書館を、蓮との待ち合わせの場所にしたのだった。
 律は交友関係は派手だが、勉強には熱心に取り組んでいる。律の両親は大手企業に勤めているらしく、ゆくゆくは彼もそういった場所に就職することになるのだろう。


「君、図書館(ここ)によくいるね」
 参考書を探している凪人に、律が声をかけてきたのが二人の始まりだった。放課後、図書館を利用している生徒は少なく、いつも顔なじみのメンバーが勉強をしている。凪人も律を図書館でよく見かけていたのだった。
「あ、はい。俺、レポート書くのが苦手で、資料がなかなか見つけられないんです」
「へぇ。でもちゃんと勉強していて偉いね」
 そう自分に笑いかける律が凪人にはとても大人に見えて、どんどん彼に惹かれていく。そして、二人が恋人同士になるまでに時間なんてかからなかった。


「きっと律さんはここにくる」
 凪人には確信がある。律はきっと図書館にくるはずだ。
 スマホの画面を確認しても、その後蓮からのメールはきていない。凪人はどんどん不安になっていく。
 ――蓮君がいないときに、律さんに会っちゃったらどうしよう……。
 図書館の中を覗くと、薄暗くて本当に魔女が出てきそうだ。強い恐怖を感じた凪人の体が小さく震えた。


「わッ⁉」
 次の瞬間、突然何者かに腕を掴まれた凪人は、思わず叫び声をあげてしまう。一瞬蓮かと期待したが、蓮がこんな風に自分を荒々しく扱うはずなんてない。
「まさか……」
 凪人が恐る恐る振り返ると、そこには鬼の形相をした律が立っていた。
「…………⁉」
 恐怖のあまり、声さえ出ない凪人の腕を掴んだまま、律が唸るように言葉を絞り出した。
「凪人、なんで最近大学に来ないんだ?」
「……あ、あの……」
「俺はずっと凪人と話がしたかった」
 少し前まで、あんなに愛していた人物にこんなにも強い恐怖を感じることになるなんて。幸せだった頃の凪人は想像さえしていなかった。
 今はただ、震えながら律を見つめることしかできない。まさに、蛇に睨まれた蛙だ。そんな凪人を見た律が、打って変わって猫なで声を出した。


「凪人、ごめん。俺はお前を傷つけた。でもこれからはお前のことを昔以上に大事にするから、やり直さないか?」
「そんな……だって、律さん結婚するんですよね? 父親になるんでしょう?」
「でも、俺は凪人のことが好きなんだ。だから、俺の家でゆっくり話をしよう? おいで、凪人……」
 律が気持ちの悪い笑みを浮かべながら、凪人に体を寄せてくる。
「ちょ、ちょっと、律さん、お願いだから離してください!」
「駄目だよ、凪人。最近は凪人のアパートの近くまで様子を窺いに行っているけど、知らない男が凪人のアパートを出入りしていたから心配していたんだ。もしかしてあの男が電話に出た奴かい? 凪人を幸せにするなんて、本当に愚かな話だよ。お前を幸せにできるのは俺だけなのに……」
 凪人は強引に抱き寄せられそうになるのを、両腕を突っぱねて必死に抵抗した。
 ――蓮君、早く来て……。
 凪人の視界が涙でユラユラ揺れる。怖くて息ができない。意識が少しずつ遠退いていきそうだ。


 その時、律の切れ長の瞳がカッと見開かれる。蛇のようなその視線に、凪人の全身を悪寒が走り抜けた。
「お前、この首筋にあるキスマークはどうしたんだ?」
「キスマーク?」
「そうか、あの男が付けたんだな? お前ら、もうそういう関係なのか……」
 凪はハッと息を呑む。きっと蓮の大学に行った日に、蓮がつけたのだろう。首筋にキスマークがついていたなんて、凪人自身も気付いていなかった。


「凪ちゃんが俺のものだっていう印を残したいんだ」


 そう恥ずかしそうに笑っていた蓮の顔が思い起こされる。
「そっか。俺は蓮君のものになっていたんだね」
 凪人の胸が熱くなり、嬉しくて息もできないくらいだ。蓮が自分のことを守ってくれているように感じられた。


「凪人、この際キスマークなんてどうでもいい。他の男に触れられたなんて許せないが、お前が俺の元へと戻ってきてくれるならば全てを水に流すよ。俺はお前が好きだ。ずっと一緒にいよう」
「嫌だ。 離せ‼ もうそんな上辺だけの言葉なんて俺は欲しくないんだ‼」
「凪人……」
「俺は、俺は蓮君のものなんだ!」
 凪人はありったけの力を振り絞り、律の体を突き飛ばすと、律が信じられない……といった風に目を丸くしている。
 凪人は震える拳を握り締めて叫んだ。
「俺は、俺だけを大切にしてくれる人とずっと一緒にいたい。二番目なんて嫌なんだ!」
「凪人、ちょっと話を聞いてくれ……」
 凪人の腕をもう一度掴もうとした律の手を勢いよく振り払った。
「俺が、これからずっと一緒にいたいって思っているのは律さんじゃなくて、蓮君だ。蓮君は俺だけを大切にしてくれる。だから俺は蓮君と一緒にいたいんだ」
 凪人は込み上げてきた涙を拭いて、律を見上げた。


「だから、さよなら。俺にはもう、あなたは必要ない。俺は、蓮君と生きていくんだ」
「凪人……待ってくれ、もう一度きちんと話し合おう」
「さよなら、律さん。これからはもう、俺に付きまとわないで」
 これで終わった……凪人の中で一つの区切りがついたのを感じる。


「俺は、自分の手で過去と決別できたんだ」


 一気に脱力してしまった凪人の意識が遠退いて、一瞬目の前が真っ暗になる。脳裏に蓮の笑顔が浮かんだ。


「蓮君、俺頑張ったよ」


 そう呟いた凪人は、背後から突然誰かに優しく抱き締められる。でも振り返らなくても、凪人にはそれが誰だかわかってしまった。
 この逞しくて優しい腕は蓮君だ……。
 ふわりと香る蓮の匂いを、凪人はそっと吸い込んだ。
「凪ちゃん、よく頑張ったね」
「蓮君……」
「ごめんね、遅くなって」
「ううん。大丈夫。ねぇ、俺頑張ったよ。蓮君、褒めてくれる?」
「うん。本当によく頑張ったよ」
 小さく声を震わせながら、蓮が優しく髪を撫でてくれる。それが気持ちよくて、蓮の手を取ってそっと頬ずりをした。
「後は俺に任せて」
「蓮君、でも……」
「大丈夫。ちょっと律さんに話があるだけだから」
 チュッと凪人の頬にキスを落としてから、蓮は凪人の前に立ちはだかる。それは、まるで律から凪人を守っているかのようで……。凪人の胸は熱くなった。


「なぁ、律さん。もうこれ以上、凪ちゃんにちょっかいを出さないでほしい」
「なんだと?」
「俺は、自分と凪ちゃんは運命の相手だって思ってる。だから、俺は一生をかけて凪ちゃんを幸せにするって決めてるんだ。俺は凪ちゃんだけいればいい。他には何もいらない」
「なんで……」
「俺は、凪ちゃんが大好きだ」
 その言葉に凪人の心が熱く震えて、涙が溢れ出す。心がいっぱいで、言葉になんてならない。


「行こう、凪ちゃん」
「うん」
 蓮に手を引かれ歩き出そうとした凪人の腕を、律が掴む。強く腕を引かれてバランスを崩した凪人の体を蓮が受け止めてくれた。
「触るな。この人は俺のものだ」
 今の蓮はまるで野生の狼だ。こんな風に睨みつけられたら、太刀打ちできる者なんていないだろう。
 そんな蓮の姿に、自分がどれほど大切に想われているのかを知った。
「ありがとう、蓮君」
 そっと呟いてから、再び溢れ出してきた涙を手の甲で拭う。凪人の瞳には、もう律の姿は映っていなかった。
「さよなら、律さん」
 律に向かい微笑んでから、蓮に差し出された手を握り締める。温かくて大きな蓮の手……今、凪人に必要なものはこの優しい手だと感じていた。
「凪人!」
 遠くから自分の名を呼ぶ律の声が聞こえてきたけど、凪人は振り返ることなんてしなかった。ただ、蓮の手を握り締めて走り続ける。
 そんな凪人と蓮を不思議そうな顔で見つめる人たちの視線なんて、今の凪人には全く気にならない。
 蓮の後ろ姿がかっこよくて、愛しくて……やっぱり涙が溢れ出してきてしまった。


 ふと校舎に視線を移すと、そこには見慣れた景色が広がっている。でももうそこは、魔女の住む洋館ではなく、学生たちの笑い声が響くキャンパスだった。
「今からでも出なかった講義の単位を取り戻せるかな。俺、蓮君と同じ年に卒業したい」
「え?」
 ポツリと呟いた凪人の言葉に、蓮が足を止めて振り返る。
「凪ちゃん、もしかして……」
「うん。俺、もう一度大学に通えそうな気がするんだ」
「本当に?」
「うん。蓮君のおかげだよ。ありがとう」
「凪ちゃん、偉い! よく頑張ったね」
 勢いよく蓮が飛びついてきたものだから、凪人はバランスを崩して倒れそうになってしまった。
 ここが大学だからとか、もしかしたら誰かに見られてしまうとか、そんなことはどうでもいい。
 過去に区切りをつけて、未来へと進んでいくことができそうな予感に、凪人の鼓動は高鳴る。


「ありがとう、蓮君!」
 そう叫んで、凪人は蓮の体を思いきり抱き締めたのだった。