あれからも、律からの連絡は続いていた。相変わらず「会いたい」「もう一度やり直したい」といった内容のメールだ。それが彼の本心じゃないなんてわかってはいる。でも、そんなメールが少しだけ気になってしまう凪人がいた。
「もう終わったことだから」
そう何度も自分に言い聞かせる。あの人は、自分の玩具が一つなくなったことが面白くないだけなのだから。
ただ、はっきりと「もう連絡をしてこないでほしい」と彼を突っぱねることが、凪人にはできないでいた。これが未練というものだろうか……。凪人にはこの感情の正体がわからなかった。
もう律と連絡をとらない、と蓮と約束をした。その約束を果たせていないことが心苦しくて。凪人の胸は締め付けられた。
つい先程から、凪人のスマホが着信を知らせている。
――付き合ってたときにも、電話なんて滅多にしてきたことなんてないくせに、なんでこんなときに限って……。
電話をかけてきているのは律だ。よりによって、蓮と一緒のときに電話をしてくるなんて。もし、未だに律と連絡を取り合っているなんて知ったら、蓮はどんな反応をするだろうか。
考えただけで、冷や汗が出てくる。
「凪ちゃん、ずっとスマホが鳴ってんじゃん。誰から電話? 出なくていいの?」
「あ、えっと……別に出なくて大丈夫だよ……」
「ふーん……。なんやかんやで、凪ちゃんのスマホもよく鳴ってるよね」
「あははは……そうかな?」
今までキッチンで食器を洗っていた蓮がリビングにやって来る。その顔は明らかに何かを怪しんでいるように見えて、自然と鼓動が速くなっていった。
ヤバイ、上手くごまかさないと……。そう思えば思うほど、挙動不審になっていく。
「もう一回聞くけど、凪ちゃん、誰からの電話?」
「え? あの……」
普段と違う蓮の声色に体がビクンと跳ね上がる。眉間に皺を寄せて凪人を見つめる蓮。その険しい表情に、何も言えなくなってしまった。
――蓮君、もしかして気付いてる?
こんな怖い顔をした蓮を、凪人は見たことがなかった。蓮はいつも凪人のことを大切にしてくれるし、優しく話しかけてくれる。
明らかに普段とは異なる蓮の雰囲気に、思わず息を呑んだ。
「電話の相手は誰?」
「あの、えっと……」
「もしかして元彼、とか……?」
その言葉にヒュッと喉が鳴る。凪人は何も言えずに、すがるような視線で蓮を見上げた。
「やっぱり……まだ完全に切れてたわけじゃないんだね」
「蓮君、ごめん……」
「ごめんじゃないよ。とりあえずスマホ貸して」
「でも……」
「いいから貸して」
蓮の凍りつくような視線に背筋を悪寒が走り抜けた。どうしていいかわからずに、凪人はそっとスマホを差し出す。凪人からスマホを受け取ると、蓮は躊躇いもなく画面をタップした。
そのスマホからは「もしもし、凪人? やっと出てくれた」という律の安堵した声が聞こえてくる。
これから一体何が起こるのだろうか? そう考えただけで凪人は泣きたくなってしまった。
今更ながら、律とこんな曖昧な関係を続けていた自分に腹が立ってくる。
「もしもし?」
「は? お前誰だ? 凪人じゃないだろう?」
電話に出た相手が凪人ではないことに気が付いたのだろう。打って変わって、今度は電話の向こう側から不機嫌な律の声が聞こえてくる。
「ちょっと聞きたいんだけど……あんた、もしかして凪ちゃんの元彼?」
「突然なんだよ。お前こそ誰だよ?」
「俺は、凪ちゃんの運命の相手だ」
「……運命の相手、だって?」
「そうだ」
「はッ、お前なに馬鹿なことを言ってんだよ。恥ずかしくないのか?」
凄みをきかせる律の声にも、蓮は全く怯む様子なんてない。むしろ、律のほうが警戒しているかのように感じられた。
「だからもう凪ちゃんにちょっかいを出すなよ。あんたらはもう終わった関係なんだろう?」
「なんだと? 俺らはまだ終わってなんかねぇよ。凪人だって、まだ俺のことが好きなはずだ」
「あんたのことがまだ好き?」
「そうだ。結局あいつには俺しかいないんだよ。俺が素っ気なくしたから拗ねてるだけだろう?」
「はぁ?」
その言葉で、蓮の切れ長の瞳に怒りが宿る。そんな二人のやり取りを聞いているのが怖くて、凪人は唇を噛み締めて俯いた。
「てかさ、凪ちゃんは俺のもんだから、もう手を出さないでもらえるかな?」
「おい、お前ナメてんのか? そんなんで簡単に手を引くわけねぇだろうが?」
「ナメてなんかねぇよ。死ぬほど真剣だ。凪ちゃんは俺の初恋の相手なんだから」
初恋……蓮のその言葉に、凪人の心が震える。
「それに、お前が凪ちゃんを裏切ったことが原因で、凪ちゃんはすげぇ傷ついたんだ。俺は、凪ちゃんを傷つける奴は何人たりとも許さねぇよ」
握り締めた蓮の拳が震えている。余程怒っているのだろう。自分のために、こんなにも怒りを露わにする蓮の姿を見て、凪人の目頭が熱くなった。
「たった一人の人間さえ大事にできない男に、凪ちゃんは渡せない」
「お前、ふざけんなよ?」
「今度凪ちゃんにちょっかいを出してきたら、俺が相手になるからな?」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「じゃあ、そういうことで」
そう言うと、蓮は電話を切ってしまう。
それから無言でスマホを差し出してきたから、凪人は恐る恐るそれを受け取った。
「あのさ、凪ちゃん。俺、怒ってるんだからね?」
「……うん。ごめん」
「まだ元彼と連絡をとってたなんて、俺、知らなかったし」
「別に連絡をとってたわけじゃなくて、向こうが勝手に……」
「言い訳なんかいいよ!」
向こうが勝手に連絡してきただけだ、そう言おうとしたのを、蓮によって遮られてしまう。
普段は声を荒らげることなんてない蓮の大きな声に、凪人の体が飛び跳ねる。自分を見つめる真っ直ぐな眼差しが怖くて、思わず蓮と距離をとった。
「でもさ、連絡がきたって無視するとか、もう電話してくるなって言うことはできただろう? それができなかったってことは、凪ちゃん、あいつが言う通りまだ未練があるんじゃないの?」
「別に未練なんか……」
「もういいよ、凪ちゃん。そんなんだから、あいつの良いように扱われちゃうんだよ」
蓮が今にも泣きそうな顔をしたから、凪人は口を噤む。
今自分が何を言っても、それは言い訳にしかならないことを凪人自身もわかっていた。蓮の言う通り、ちゃんとけじめをつけずに、ダラダラと連絡を取っていたことは事実なのだから。
凪人はギュッと唇を噛み締めて俯いた。
「……凪ちゃん」
「…………⁉」
凪人は考える間もなく蓮に強く抱き締められる。抱擁なんて可愛らしいものでなくて、息ができなくなるくらいの力で……。
――やっぱり蓮君、すごく怒ってる。
凪人は、蓮に少しだけ恐怖心を抱いた。
「凪ちゃん、覚えておいて。俺は嫉妬深くて独占欲の強い、重い男なんだ」
「痛ッ!」
突然首筋に歯をたてられた凪人は全身に力を込める。
「今度この体を抱くのは、この俺だから。覚えておいてね……」
「…………」
「元彼になんて渡さないよ。凪ちゃんは俺のものだから」
耳元で聞こえてくる蓮の声に、ゾクゾクッと背中に電流が走る。
――あぁ、蓮君からは逃げられない……。
凪人は自分を抱き締める力強い腕に、夢中でしがみついたのだった。
それ以来、明らかに蓮の態度が変わったように感じられる。自分と蓮との間に、見えない壁が立ちはだかっているようだ。
前みたいに親しく話しかけてきてはくれないし、笑ってもくれない。その原因を作ったのが自分自身だということはわかってはいるけれど……凪人は強い孤独感に襲われた。
「蓮君、まだ怒ってるの?」
何度もそう問いかけようとしたけど、寂しそうな顔をする蓮に、声をかけることなんてできない。
――俺は、蓮君を傷つけてしまったんだ……。
きっと蓮は怒っているのではなくて、傷ついたのだ。それがひしひしと伝わってくる。
律と別れてボロボロになった自分に優しくしてくれた蓮を、最低な方法で傷つけてしまった……。凪人の心は引き裂かれんばかりに痛む。
それなのに、蓮に謝る勇気さえない自分が腹立たしかった。
「俺は本当に最低だ……」
溢れ出した涙を手の甲で拭う。
蓮の温もりが、ひどく恋しかった。
◇◆◇◆
「凪ちゃん、おにぎり作っておいたから食べて。俺、大学に行ってくるから」
「蓮君……」
「今日は帰ってから、凪ちゃんの好きなオムライス作るから待っててね」
まだ布団の中にいる凪人の頭を、蓮が優しく撫でてくれる。
関係がギクシャクしても、自分を気遣ってくれる優しさが逆に辛くて。凪人は頭から布団を被った。
「行ってらっしゃい」
「うん。行ってくるね」
寂しそうな蓮の声が聞こえた。
蓮が居なくなった部屋からは生活音が消え、静けさに包まれる。この部屋は、こんなにも静かだったのか……、と思い知らされた。
最近のこの部屋には、蓮の笑い声が響き渡っていた。食事を作る音がキッチンから聞こえてくるし、洗濯機が回る音もする。
そんな音が心地よかった。
いつもカーテンの締め切られたこの部屋が、明るくなったように感じられて……凪人はいつの間にか、寂しさを感じることがなくなっていた。
「今すぐ、蓮君に謝りたい」
衝動的にスマホを握り締めたけど、そっとベッドの上に置く。時計に視線を移せば、夕方の四時だ。
蓮が出掛けてから、ずっとベッドから出ることができなかった自分にガッカリしてしまう。凪人は失恋したあの日から、全然成長なんてしていなかった。
ましてや、蓮に会う前の生活に戻りつつあることが情けなくて、目頭が熱くなる。凪人はグッと奥歯を噛み締めた。
でも……。
「……変わりたいな……」
ポツリと呟く。
それは嘘偽りのない、凪人の本心だった。
失恋をしてから家に引き籠もり、全てのものから目を背け続けてきた日々。でも蓮に出会って、心の底から変わりたいと思った。
「行こう」
凪人は意を決して布団から抜け出す。
「大丈夫、怖くなんかない。昔の生活に戻るだけだ」
大きく息を吐いて呼吸を整えながら、自分に言い聞かせる。それから、ずっと閉じられていたカーテンを一気に開いた。
「俺は、変わるんだ」
そう心に誓いながら。
「よし、行くぞ……」
気合を入れて玄関の扉を開けた。ヒンヤリとした空気に包まれた凪人は、ブルッと震える。
外の世界がこんなにも寒かったなんて、今の今まで知らなかった。
引き籠っていた凪人は、洋服なんていうものに気遣ってこなかった。そんな凪人がクローゼットの中からよそ行きの洋服を引っ張り出した。
大学に通っていたときによく着ていた青いパーカーに、お気に入りだった白いパンツ。照れくさく感じたから、黒いニット帽を目深に被った。
たったそれだけで、心臓が張り裂けそうな程緊張してしまう。今の凪人にとって外に出るということは、とても勇気のいることだった。でも、これが新しい一歩を踏み出すために必要なことだと感じられる。
「俺は、昔の自分を取り戻すんだ」
そう心に決めて、凪人はアパートの階段を駆け下りた。
蓮が通っている大学は、凪人の住んでいる街から電車に乗らなければならない所にあった。久しぶりに乗る電車に、否応なしにも緊張してしまう。
「わぁ……久しぶりだなぁ」
大学に通うために毎日来ていた駅が、ひどく懐かしく感じられた。
駅にはたくさんの店が並んでいて、今はハロウィン一色に染まっている。大勢の人が急ぎ足で歩いている姿は、きっといつもと変わらない光景なのだろう。
それでも、ずっと薄暗い部屋に閉じこもっていた凪人の瞳には、ハロウィンで飾られた店も、家路を急ぐ人々も、全てがキラキラと輝いて見えた。
「懐かしい」
思わず涙が出そうになる。高鳴る心臓がうるさいくらいだ。
「でも大丈夫。行けそうだ」
凪人は拳をギュッと握り締めて、ホームへと続く階段を、一歩ずつ上がっていった。
◇◆◇◆
「あった……」
勢いで来たものの、凪人は早くも後悔してしまう。
突然大学に押しかけてきた自分を、蓮はどう思うだろうか。緊張してしまい、手先が急に冷たく感じられる。
「せめて、連絡してから来ればよかった……」
大体、蓮が今大学にいるのかもわからない状況だ。もうとっくに帰ってしまっているかもしれない。勢いでここまで来てしまったことを、少しだけ後悔する。
「ここが蓮君の通っている大学……」
蓮は、将来小学校の先生になりたいと話してくれたことがある。凪人がその話を聞いたとき、蓮は教師に向いている。そう素直に感じたのだった。
恐る恐る大学の敷地内に足を踏み入れてみる。時々すれ違う学生が、凪人には別世界に住む人間のように輝いて見えた。つい先程まで引き籠っていた凪人には、何もかもが刺激的に見えてしまう。
「やっぱり帰ろうかな」
そう思ったとき、遠くのほうから大勢の笑い声が近付いてくる。その中に聞き慣れた声を耳にした凪人は、そちらに視線を向けた。
もしかして……、凪人の鼓動が少しずつ速くなる。
「あ、見つけた。蓮君」
凪人が声のするほうへ視線を向けると五、六人の学生たちが楽しそうに話しながらこちらに向かって歩いてくる。一瞬見ただけでわかる、美男美女のグループ。明らかにカースト上位に君臨する人達だ。
その集団の中で一際目を引く存在。蓮の周りにいる学生たちは、みんな顔立ちが整っていて、スタイルもいい。そんな中にいても、蓮の美しい容姿は目を引く存在だ。
凪人は蓮を一目見ただけで、胸が熱くときめいた。
「蓮君……」
それと同時に悲しくなってしまう。
自分は信じていた恋人に捨てられて、つい先程まで引き籠っていた、ちっぽけな存在。蓮とは住んでいる世界が違う……、そう感じられた。
今凪人の目の前にいる蓮は、綺麗な女の子達に囲まれている。
あんなに立派な蓮が、自分と結婚したいだなんて、そんなはずがない。あれは夢だったのかもしれない……。そう思えてしまうくらいだ。今、蓮の隣で笑っている女の子たちの方が、はるかに彼と釣り合っている。
――やっぱり、俺は蓮君には不釣り合いだ。
蓮に気付かれる前に引き返そうと、慌てて踵を返そうとした凪人。でもそれは叶わなかった。
「あれ? もしかして凪ちゃん? やっぱり凪ちゃんだ。どうしたの? こんな所で」
気付かれないうちに遠ざかろうとしたが、蓮に呼び止められてしまったのだ。
「あ、あの……あの……」
なんと返事したらよいのかがわからず、思わず俯いてしまう。だって、よくよく考えてみたら、一歩間違えればストーカーではないか? 突然冷静さを取り戻した凪人は、血の気が引いていくのを感じた。
そんな凪人の元に、嬉しそうな顔をしながら蓮が走り寄ってくる。逃げ出したい衝動に駆られたが、蓮があまりにも嬉しそうな顔をしているものだから、必死に堪えた。
「もしかして、俺のことを迎えに来てくれたの?」
「……えっと、あ、うん……。ごめんね、突然来ちゃって。友達がいるのに、迷惑だったよね」
「全然そんなことないよ。超嬉しい!」
「わッ!」
いきなり蓮に抱きつかれた凪人は、バランスを崩してよろめいてしまった。それでも、数日ぶりに感じる蓮の匂いと温もりで凪人の心は蓮でいっぱいになってしまう。思いきり、蓮を抱き締め返した。
「凪ちゃん。もしかして、カーテン開けられたの?」
「……うん。カーテンも開けたし、外にも出られたよ」
「凄いね、凪ちゃん。偉いよ」
「うん。ありがとう」
「凪ちゃん、めちゃくちゃ頑張ったね」
「だって、だって……俺、蓮君に会いたかったから。直接会って謝りたいって思ったら、居ても立っても居られなくて……」
「そっかぁ。嬉しいなぁ」
そう言いながら、蓮が優しく頭を撫でてくれる。久しぶりに蓮に頭を撫でられて凪人の心は満たされていく。勇気を振り絞ってよかった……。そう思えた。
ここが、蓮が通っている大学の構内であることはすっかり頭の中から抜け落ちて、夢中で蓮にしがみついた。
その時だった――。
「ちょっと蓮、その子誰?」
突然聞こえてくる不機嫌そうな声に、一瞬で我に返る。凪人は慌てて蓮から体を離した。
「その子、誰? 蓮にそんな平平凡凡な知り合いなんていたんだ?」
グループの中にいた女の子たちが、明らかに「不愉快だ」と言った顔をしている。女の子に見下されるのなんて慣れてはいるけれど、それとはまた違った感情が混ざっているように凪人は感じた。
――あぁ、この女の子たちは蓮君のことが……。
凪人は咄嗟にそう思った。
先程までの満たされた感情は、一瞬で劣等感に変わっていく。やっぱり、こんなにも綺麗な女の子に勝てるはずなんてない。
蓮はモテるだろうと思ってはいたけれど、自分の知らない一面を垣間見てしまったことに、凪人の胸はズキズキと痛んだ。
「あ、この子? 凪ちゃんはね、将来俺と結婚する予定の子なんだ」
「え? ちょ、ちょっと蓮君……」
凪人は目を見開きながら蓮を見上げる。これでは火に油を注いでいるだけではないか。凪人は気が気でない。
しかし、そんな凪人など気にする様子もなく、そこには満面の笑みを浮かべた蓮がいた。女の子たちの表情が、より一層険しいものとなる。
――蓮君、俺との関係を隠さないんだ。
凪人は驚きを隠せない。まさか、自分のような冴えない男と一緒になるのだと、友人たちの前で言ってもらえるとは想像もしていなかったのだ。
「ちょっとどういうこと? あたしが告ったときに言ってた好きな子って、もしかしてその子なの?」
「あぁ、そうだけど」
「なにそれ? じゃああたしは、そんな冴えない子に負けたっていうの? 超気分が悪いんだけど!」
「しかも男同士で結婚だなんて、キモ過ぎる。蓮、頭おかしくなったの?」
「はぁ? お前ら何言ってんの?」
蓮の整った顔が徐々に怒りで歪んでいくのが見て取れた。普段蓮は温厚な性格をしているのに、凪人のこととなると、途端に凶暴な感情を剝き出しにすることがある。
それはまるで、本能的に強者が弱者を守ろうとする姿にも見えて……凪人の胸が熱くなる。
「俺にとって、この人はすごく大事な人なんだ。お前たちと比べ物にならないくらいな。この人を馬鹿にするような奴と、一緒になんかいたくない。行こう、凪ちゃん」
「で、でも……あの子たちいいの? 友達なんでしょ? すごく怒ってるみたいだけど」
「別にいいよ。俺の凪ちゃんを侮辱する奴なんて、俺には必要ないから」
「でも……」
「俺には凪ちゃんがいればいい。他の奴なんてどうでもいいよ」
「ちょっと待ちなさいよ、蓮!」
蓮に向かって怒声を浴びせる女の子のことなど気にする様子もなく、蓮は凪人の手を引いて歩き出した。
◇◆◇◆
大学を後にしてから、蓮は振り返ることなく歩き続けている。もともと足の長さが違う二人だから、凪人は必死に蓮の後を追いかけた。
繋がれていた手は、いつの間にか指と指が絡められていて、きつく握り合っている。大きくて温かい蓮の手……、凪人はドキドキしてしまう。
しかし、蓮は一体どこに向かっているのだろうか。駅とは違う方向に向かって歩いている。
「ねぇ、蓮君。どこに向かってるの? 駅はこっちじゃないよね?」
「うん。久しぶりに凪ちゃんが外に出られたから、少し散歩して帰ろうと思って。こっちに遊歩道があるんだ。行ってみよう」
「あ、うん」
「俺ね、本当に嬉しかったんだよ。まさか凪ちゃんが大学まで迎えに来てくれると思ってなかったから」
照れくさそうにはにかむ蓮の顔が、夕焼けで赤く染まっている。
「ありがとう、凪ちゃん」
その笑顔に胸が甘く締め付けられる。
――あぁ、俺はこんなにも蓮君のことが……。
今まで見て見ぬふりをしていた感情が、芽を出した瞬間。こんなに膨れ上がってしまった蓮への想いに、もう気付かないフリなんてできない。
凪人はとても幸せなのに、泣きたくなるくらい苦しい。苦しいのに、心がポカポカと温かかった。
「俺、蓮君に会えてから変われたと思うんだ」
「凪ちゃん」
「だから、蓮くん、ありがとう」
冷たい秋風が火照った凪人の頬を冷やしてくれて気持ちがいい。外の世界は、こんなにも明るくて心地がよかったことを思い出す。
「俺、ずっと変わりたいと思ってた。でもどうしても一歩が踏み出せなくて……たくさんの本を読んでみたりしたけど、駄目だった」
「そっか……。だから凪ちゃんの部屋には、あんなに本がたくさんあるんだね」
「うん……なんとか立ち直らなきゃって、自分なりに頑張ったんだ」
もう自分が情けないやら、恥ずかしいやらで蓮の顔さえ見ることができない。
凪人の部屋の床には、「失恋から立ち直る方法」「人生をやり直すためには」といったタイトルの本が散乱している。ただ、こういった本が凪人を救ってくれることなんてなかったけれど……。
だから、カーテンを閉め切り、殻に閉じこもる以外に、自分を守る方法がなかったのだ。
「そっか。凪ちゃん、今まで一人で頑張ってきたんだね」
「……え?」
「なんとかしなきゃって、一人でもがいて苦しんで……もっと早く、会いに行けばよかったって、自分が腹立たしいよ」
「蓮君……」
「あの日、俺は凪ちゃんを守るんだって決めたのに……」
「……あの日……?」
凪人が恐る恐る顔を上げれば、唇を噛み締めながら拳を強く握り締める蓮の姿が……。
「もっと早く凪ちゃんを助けてあげられたらよかったのに。本当にごめん」
「そうじゃない、蓮君。君のせいじゃない」
「ごめんね。でも、今日迎えにきてくれて本当に嬉しかったよ」
小刻みに肩を揺らす蓮を凪人は咄嗟に抱き締める。こんな自分の為に苦しんでくれる人がいるなんて……それだけで胸が熱くなった。
「これからは、俺が凪ちゃんを守るから」
「……ありがとう」
「凪ちゃん、大好き」
蓮が照れくさそうに、でも力いっぱい凪人を抱き締め返してくれる。蓮の逞しい腕に、凪人は体を委ねた。
次の瞬間、蓮が凪人の首元に唇を押し付ける。何度か唇を押し当てて、離れていく。今度は額を首筋に擦りつけてきたから、蓮の髪が顔にかかり、くすぐったくて思わず肩を上げた。
「ふふっ。蓮君、くすぐったいよ」
「我慢して。凪ちゃんは俺のもんなんだから」
「……え……?」
「凪ちゃんが俺のものだっていう印を残したいんだ」
この行為が、蓮が自分にキスマークをつけているのだとわかった瞬間、凪人の体がピクンと跳ね上がる。まるで、凪人は俺のものだと、刻印を刻み込まれているような感覚に陥った。それでも、まるで子供のように甘えてくる蓮がとても愛おしい。
沈んでいく太陽に、自分の髪を揺らしていく秋風。烏が群れをつくりながら巣へと帰っていく……そんな光景に、凪人の心が震える。
大きな一歩を踏み出せたことが、ただただ嬉しかった。



