凪人と蓮が一緒に暮らし始めて、もうすぐ一カ月が経とうとしている。再会してから、殻に閉じこもりがちな凪人に焦れることなく、蓮は優しく寄り添っていてくれた。


 その日、凪人は朝早くに目が覚めたから、蓮を大学へと見送ることができた。そんな少しの前進を、「偉いね、頑張ったね」と蓮は褒めてくれる。それが嬉しくて、思わず目を細めた。
 蓮がいなくなった部屋は、怖いくらいに静まり返ってしまう。静寂が怖くて、慌ててつけたテレビから流れてくる占いを、凪人はぼんやりと見つめた。
 独りぼっちなんて慣れているはずなのに、一人でいることに寂しさを感じてしまう。
「早く夜にならないかな」
 その日も、凪人は時計と睨めっこをして過ごすこととなる。


 正午になったから、蓮が作っておいてくれたサンドイッチを口にする。少しだけでも家事をやろうと、洗濯機に向かった。
「偉いね、頑張ったね」
 そんな風に、蓮が褒めてくれることが嬉しい。大きな手で頭を撫でられることが好きだった。
 ――蓮君、早く帰ってきて……。
 心の中でそう呟く。
 秋になった途端、驚く程日が短くなった。カーテンを開けることなんてなかったけれど、太陽が沈み、辺りが暗くなっていくのがわかる。
 夜になると、途端に不安が強くなってしまう。蓮の温もりが恋しくて、体がジンジンと疼き出す。
 恋人にフラれた途端、新しい男になびくなんて……そんな現実を受け入れがたくはあったけれど、蓮の優しさはひどく心地いい。
 蓮は、凪人の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれたのだ。


「会いたい……」
 ベッドに寝転び視線を移すと、無造作に脱ぎ捨てられた蓮のパーカーが目に入る。
「蓮君……」
 そのパーカーを強く抱き締めて顔を埋めれば、優しい柔軟剤の香りがした。
「蓮君の香りだ」
 そっと息を吸い込んで唇を寄せる。凪人の心が幸せで満ち足りていった。
「でも、まだ足りない……もっと、蓮君の香りを感じたい……」
 凪人は夢中で部屋に置いてある蓮の洋服を搔き集める。それらをベッドに置いて、洋服の中に潜り込んだ。
「あぁ、蓮君の匂いがして落ち着く……」
 深く息を吸い込む。まるで蓮に抱き締められているようで……心が温かい。
「幸せ……」
 うっとりと微笑みながら目を閉じる。これで寂しくなんかない……そう、自分に言い聞かせながら。


 玄関が開く音が聞こえると同時に、誰かが部屋に入ってくる気配を感じた。
「凪ちゃん、ただいま。 あれ? 俺の洋服にくるまってるなんて……本当に可愛いなぁ」
 優しく頬を撫でられた後、チュッという音と共に、頬に温かくて柔らかいものが触れる。それが擽ったくて、凪人は夢の中で「ふふっ」と笑ったのだった。

◇◆◇◆

 凪が目を覚ましたのは、辺りが薄暗くなり始めた頃――。スマホの時計を見ると、もうそろそろ蓮が帰ってくる時間だ。
「俺、蓮君に何かしてあげたいな」
 最近凪とはそう思う。自分ばかり蓮の世話になり、蓮には何もしてあげられないことが歯痒くて仕方がないのだ。蓮の喜ぶ姿が見たい……。でも何をすれば蓮が喜んでくれるかが、凪人にはわからなかった。


「あ、そうだ……。蓮君にご飯を作ってあげよう」
 そう思い立った凪人は、冷蔵庫の扉を勢いよく開ける。冷蔵庫の中は、蓮がマメに買い物に行ってくれているようで、色々な食材が綺麗にしまわれていた。
「これだけ食材があれば何か作れそう」
 冷蔵庫の扉を開けたまま、凪人は首を傾げる。蓮は何が好物だろうか。色々考えを巡らせてみるが、蓮には好き嫌いはなく、なんでも「美味しい」と食べているイメージがある。
 そんな時、ふと先日テレビを見ながら蓮が言っていた言葉を思い出した。


「ねぇ、凪ちゃん。タコライスって海にいるタコが入ってるの?」
「ん? タコライスにタコは入ってないと思うよ」
「へぇ。よくわかんないけど、タコライスって美味しそうだなぁ」
 テレビに映し出されているタレントが、タコライスを美味しそうに食べている。そんな映像を蓮が食い入るように見つめているものだから、つい可笑しくなってしまった。
「食ってみたいなぁ」
 そう呟く蓮の表情が凪人には印象的だったのだ。


「作ってみようかな、タコライス」
 スマホでレシピを調べると想像していたより簡単そうだし、食材も揃っている。「よし!」と気合を入れて、凪はキッチンへと向かった。
 凪人は失恋をしてから料理をしたことなんてない。恋人がいるときには、喜んでもらいたいからと料理を振舞っていた。「美味しい、ありがとう」と笑う顔が見たくて、一生懸命努力していたことを思い出す。
「頑張ろう、蓮君の為に」
 意を決して包丁を握った手が小さく震えている。
「大丈夫、できる。頑張れ、俺!」
 凪人は自分で自分を励ましながら、食材を切り始める。リズミカルに包丁を動かすと、少しずつ感覚を取り戻していくような気がした。フライパンに油を敷いてにんにくを炒めると、香ばしい香りが室内に広がっていく。
「あ、なんか上手くいきそう」
 自然と口角が上がっていくのを感じる。「美味しい!」と笑う蓮の顔を想像するだけで、嬉しくなってしまい、つい鼻歌を口ずさんでしまった。


 ひき肉を炒めて、カレー粉とケチャップを混ぜる。それに塩、こしょう、ソースを加えて味を整えた。普段使わないようなお洒落な皿にご飯をよそって、それに美味しく味付けられたひき肉を乗せた。
 トッピングにレタスをちぎって皿に並べる。それから、最後にチーズをパラパラと振りかければタコライスの完成だ。
「やった、できた……」
 ただご飯を作っただけだと言うのに、凪人は涙が出そうなほど感動してしまう。それと同時に、蓮が「美味しい」と言ってくれるかが不安だった。

◇◆◇◆

「ただいま」
 蓮の少しだけ疲れた声と共に、玄関の扉が開く。その音に、凪人の心臓が飛び跳ねた。
「あ、蓮君だ」
 蓮がキッチンに来るまで待ちきれない凪人の体は、自然と玄関に向かって走り出す。突然走ってきた凪人に蓮は目を丸くして驚いていたが、すぐにいつものように微笑んだ。
「蓮君、おかえり!」
「凪ちゃん、ただいま。今日はどうしたの? なんだか嬉しそうだね。わッ!」
 凪人が勢いよく蓮に抱きつくと、ギュッと力強く受け止めてくれる。凪人は蓮の胸に顔を埋めた。
 蓮は喜んでくれるだろか? 美味しいと言ってくれるだろうか? 不安で仕方がない。
「あれ、なんだ? めっちゃいい匂いがする」
 まるで犬のようにクンクンと鼻を鳴らす蓮。恐る恐る蓮を見上げた凪は、そっと口を開いた。
「この前蓮君がタコライスを食べてみたいって言ってたから、作ってみたんだ」
「え? 凪ちゃんが?」
「うん。美味しくできたかはわからないけど……」
「…………」
 蓮が突然黙ってしまう。突然その場に流れた沈黙が怖くて、凪人は唇を噛んだ。なぜ蓮は突然黙り込んでしまったのだろうか……。その時、凪人の体がふわりと浮いたのを感じた。


「偉いよ、凪ちゃん! よく頑張ったね!」
「ちょ、ちょっと蓮君! なにすんだよ!」
「だって、凪ちゃんがご飯を作ってくれるなんて思ってもみなかったから、超感動しちゃって!」
 蓮は凪人を抱き抱えたまま、今にも踊り出しそうな勢いだ。
「凪ちゃん、よく頑張ったね」
「うん。俺、蓮君に何かお返しがしたかったから……」
「凪ちゃん、俺超嬉しい」
 切れ長の瞳に涙を浮かべる蓮。こんなにも喜んでくれるとは想像もしていなかっただけに、凪人の胸が熱くなった。
「でも、上手くできたかはわからないよ」
「そんなの、どうでもいいだよ。凪ちゃんが俺の為に頑張ってくれたっていうことが、嬉しくて仕方がないんだ。ありがとう、凪ちゃん」
「ありがとうは、俺のほうだよ。蓮君、いつもありがとう」
 二人で顔を見合わせて「ふふっ」と笑う。こんなにも幸せなのに、恥ずかしくて仕方がない。凪人は幸せを噛み締めた。


 一生懸命作ったタコライスは大成功で、蓮は「超おいしい!」と満面の笑みを浮かべながらペロッと平らげてしまう。その食べっぷりは気持がいいくらいだった。
「デザートは凪ちゃんがいいなぁ」
「へ?」
「だから、デザートは凪ちゃんが食べたいって言ってるんだよ」
「…………」
 蓮が頬を赤らめながら凪に体を寄せてくる。凪人は少しだけ怖くて無意識に後ずさりをしたら、ベッドに背中が当たり、身動きがとれなくなってしまった。
 ドキンドキンと高鳴る心臓が口から飛び出してきそうだ。酸素が上手く取り込めなくて、肩で呼吸をする。そんな凪人を見た蓮がふわりと笑った。
「冗談だよ、凪ちゃん」
「冗談?」
「うん。半分本気の冗談」
 蓮が凪人の胸の中でクスクスと笑う。
「前にも言ったでしょう? 俺は凪ちゃんが俺に抱かれてもいいと思うまで待つって。でも、今はこのままくっついていさせて? お願い……」
「……うん、いいよ……」
 まるで子供のように甘えてくる蓮の髪をそっと撫でてやる。凪の胸に頬ずりをしながら、蓮が満足そうに微笑んだのだった。

◇◆◇◆

 それからも、二人の穏やかな生活は続いた。でも、凪人には一つだけ気になることがある。それは……。


「ねぇ、蓮君。またスマホが鳴ってるよ」
「あー、ごめんね。大学の友達から電話がきたみたい」
「……もしかして、女の子?」
「別に女の子だけってわけじゃ……」
「ふーん……もしかして、蓮君ってすごくモテたりするの?」
「別にすごくってわけじゃないけど……ごめん、少し席外すね」
 そう言いながら、部屋から出ていってしまうことが度々ある。
 蓮は言葉を濁すけれど、凪人は薄々感づいている。きっと、蓮はすごくモテる。
 恐らく、電話の相手は男友達だけではなく、女の子もいるはずだ。そう思えば面白くなんてないけれど、ヤキモチを妬く資格なんて、凪人にはない。
 それに蓮がモテるのは当たり前だ。大人になって再会した蓮は、ずっと一緒に暮らしている凪人ですら時々見とれてしまうほど、容姿端麗だ。それに性格だっていい。
 傍にいたら、きっとみんな蓮に恋をしてしまうだろう。
「こんなヤキモチ妬いて、みっともない……」
 そう何度も言い聞かせてみるけど、日に日に蓮への想いが募っていくのを感じずにはいられない。


 ずっと蓮の傍にいたい。彼を独り占めしたい。
 そして……いつか蓮の恋人になりたい。


 そんな思いが強くなるほど、こんな自分が蓮のような立派な人と一緒にいていいのだろうか、という不安にも襲われる。たかが幼い頃の約束に縛られて、自分の傍にいる必要なんてないのだから。
 それでも、悪いことだと思いつつも、電話をしている蓮の様子を盗み見てしまう。どうしても、蓮が自分以外の人と仲良くするなんて面白くないから。
「だから、君とは付き合えないって何回も言ってるじゃん?」
 そう言いながら面倒くさそうに頭を掻き毟る蓮。凪人と一緒にいるときには見せないそんな一面を見てしまうと、自分はやっぱり彼の特別な存在なのだ……、と嬉しくなってしまった。
「あのさ、悪いけどもう切るね? なんでって、今俺、好きな人と一緒にいるの。そう、将来結婚する相手」
 蓮の言葉に心臓が高鳴る。つい口角が上がってしまうのを感じた。
「じゃあ、切るよ。バイバイ」
 電話を切った蓮は大きく息を吐く。蓮に気付かれないよう、凪人は静かにリビングに戻った。


「ごめんね、凪ちゃん。電話終わったから」
「……うん」
「なに? 凪ちゃん、どうしたの?」
 唇を尖らせる凪人の顔を、不安そうに蓮が覗き込んでくる。
「あのさ、俺、やっぱり、蓮君は誰と電話してるんだろう……って気になっちゃうよ……。なんか、心がザワザワする」
「なにそれ、ヤキモチ妬いてくれてたの? 俺、超嬉しいんだけど」
「ヤ、ヤキモチなんかじゃ……」
「嘘だ。凪ちゃん可愛い!」
 一瞬で頬に熱が籠ったから、慌てて蓮から顔を背ける。今、どんな言い訳を並べたところで、ヤキモチを妬いていることなんて隠しようがない。
 恥ずかしくて唇を噛み締めていれば、蓮にギュッと抱き締められる。顔から火が出そうになって、全身に力を込めた。


「ヤキモチなんか妬かなくったって大丈夫だよ。告白してきてくれた子は、全部断ってるから」
「え? なんで?」
「だって、俺の運命の相手は凪ちゃんだもん。俺は、凪ちゃんがいてくれるだけで十分だから」
「……蓮君」
「だから、ずっと一緒にいようね」
 頬を赤らめながら笑う蓮を見て、凪人は思う。
 ――俺は変わりたい。昔の自分に戻りたい。
 苦しい葛藤の中、新しい感情が芽生え始めていた。


 その翌日。
「行ってきます。今日もできるだけ早く帰るからね」
「うん。行ってらっしゃい」
「……凪ちゃん。俺、大学に行きたくない」
「え? なんで? 大学で何かあったの?」
 突然拗ねたような顔をする蓮の顔を、慌てて覗き込む。もし蓮まで自分と同じように引き籠ってしまったら……そう思えば、心中穏やかではない。
「だって、凪ちゃんとずっと一緒にいたいんだもん。だから、大学もバイトも行きたくない」
「蓮君……急にどうしたの?」
「俺、凪ちゃんから離れたくない」
 突然駄々を捏ねながら自分にしがみついてくる蓮の体を、必死に受け止める。自分よりも体格のいい蓮に飛びつかれて、もう少しで尻もちをつくところだった。
 ――あぁ、なんて可愛らしいんだろう。
 凪人は蓮の体を強く抱き締め返した。


「俺も蓮君と離れるのが寂しいよ」
「本当に?」
「うん、本当だよ。でも蓮君はちゃんと大学に行かないと……。俺みたいになったら駄目だよ。俺、蓮君が帰ってくるのを待ってるから」
「凪ちゃん……」
「行ってらっしゃい」
 蓮の前髪を掻き分けて、少しだけ背伸びをする。それから、額にそっとキスをした。
 素直に感情をぶつけてくる蓮が、凪人にはとても愛おしく感じられる。子供のように不貞腐れた顔をしている蓮を、大学へと送り出した。
「凪ちゃん……」
「いい子だから、行っておいで」
 扉が閉まるのを確認してから、大きく息を吐く。最後の最後まで駄々を捏ね続けた蓮を見ていると、可笑しくなってしまった。


 最近は蓮のおかげで、朝はきちんと起きて、夜には眠るという生活リズムに戻りつつある。蓮が大学に行っている間に、掃除や洗濯といった家事だって、少しずつこなせるようにもなってきていた。
「ちゃんと朝起きられて偉いね」
 こんな当たり前のことで、蓮は凪人を褒めてくれる。まるで犬がお手をしたときのように、嬉しそうな顔をしながら頭を撫でてくれるのだ。
 だから、凪人は少しずつ立ち直れてきているのかもしれない。そう、蓮があまりにも優しいから。
 アパートに一人取り残された凪人は、突然寂しさに襲われる。蓮がいるときには、彼の明るい声と笑い声が響き渡っているのに……。独りぼっちの部屋はとても静かで、広く感じられた。
「寂しい」
 蓮と暮らすようになってから、再び感じるようになった寂しさ。でも、律を失ったときの寂しさとは違うものだった。
 蓮と一緒にいるときはあんなにも幸せなのに、一人になった瞬間寂しさを感じてしまう。それでも、蓮のことを思い出せば、まるでココアを飲んだときのように心が温かくなった。

 
 凪人は静かに窓際に近付いて、カーテンの隙間から外を盗み見る。まだ蓮は、アパートの近くにいるだろうか。後ろ姿だけでもいいから、見てみたいという強い衝動に駆られた。
 窓の外の景色を見た凪人は、思わず溜息を吐いた。
「わぁ……綺麗」
 街は朝日を受けキラキラと輝いている。こんなにも朝日は眩しかったのかと驚いてしまった。
 ランドセルを背負った小学生たちが、楽しそうに笑いながら学校へと向かい走って行く姿に、スーツを着たサラリーマンが颯爽と自転車を漕いでいる姿。すぐ近くの大通りにはたくさんの車が走っていた。
 世界はこんなにも慌ただしい朝を迎えているのに、凪人の周りの時間は止まったままだ。その現実を目の当たりにしてしまうと、自分の不甲斐なさを感じてしまう。
 ――どうして自分は、こんな薄暗い世界にいるのだろうか?
 強い焦燥感に無力感。この世界から消えてしまいたいとさえ感じた。


 その瞬間、横断歩道を渡り切った蓮がアパートを振り返る。目が合ったように思えたのは、気のせいだろうか……。
 凪人は咄嗟にカーテンを閉めて、床に蹲る。
「どうしよう……」
 まさか、蓮を盗み見ていたことがバレてしまっただろうか……。心臓がドキドキと高鳴り出す。床に置いてあった蓮の洋服を、思わず抱き締めた。

◇◆◇◆ 

「今日凪ちゃん、カーテンの隙間から俺のこと見てた?」
「え?」
 凪人はびっくりして箸で掴んでいたコロッケを、思わず落としてしまう。
 もしかして、蓮君……気が付いてた……?
 一瞬で心臓が高鳴って、顔にどんどん熱が籠っていく。蓮はそれに気付いていないのか「凪ちゃん、コロッケ落ちたよ」と慌てて拾ってくれた。
「はい、凪ちゃん。あーん?」
「え? な、なに?」
「コロッケが落ちたから拾ってあげたんだ。だから、あーん?」
「あー……ん」
 蓮が自分の箸でコロッケを掴み、凪人の前に差し出してくれる。凪人は恥ずかしかったけれど、大きな口を開けてそのコロッケを頬張る。顔から火が出そうなのに「美味しい?」と、いつもと変わらない笑みを蓮は浮かべていた。


「も、もしかして、俺が蓮君を見ていたことに気が付いてたの?」
「まぁね……。あれだけ熱い視線を送られたら気が付くでしょう」
「な……」
 今度はにやりと意地悪そうに笑う蓮。そんな表情もかっこよくて素敵だけれど、今はそんなことを考えている場合ではない。
「ご、ごめん、ストーカーみたいなことして。気持ちが悪かったよね?」
「そんなことない。その逆だよ。俺、嬉しかったんだ」
「嬉しかった? なんで?」
「だって、凪ちゃんが少しでも外の世界を気にしていたなんて、大きな進歩じゃない? だから、俺すごく嬉しかったんだ」
「そんな……俺……」
 凪人が顔を真っ赤にさせながら俯くと、「ほら、トマトも食べなくちゃ駄目だよ」と口にミニトマトを放り込んでくれる。凪人はそれをモグモグと噛んでから、一気に飲み込む。凪人がトマトを苦手だと言うことを、蓮は覚えていてくれたようだ。そんなことまで覚えてくれていたなんて……。恥ずかしく思うのと同時に、嬉しさが込み上げてきた。
「頑張ったね、凪ちゃん」
「蓮君、ありがとう」
 こんな引き籠っている自分を褒めてくれるなんて……。凪は鼻の奥がツンとなる。
「でも、無理しないでね」
 そう笑いながら、蓮はもう一つミニトマトを口に放り込んでくれたのだった。

◇◆◇◆

「じゃあ、凪ちゃん、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
「今日は餃子でも作ろうかな。凪ちゃんも一緒に作る?」
「うん。何だか楽しそう。蓮君が帰ってくるのを待ってるね」
 翌朝、いつものように蓮が出掛けたあと、この部屋は静けさに包まれる。カーテンの隙間からは眩しい朝日が差し込み、耳をすますと外からは子どもたちの元気な話し声が聞こえてきた。
『頑張ったね、凪ちゃん』
 昨夜、蓮が褒めてくれたことが嬉しくて、凪人はそっと窓辺に近付く。震える手でカーテンを開くと朝日が眩しくて、凪人は思わず目を細めた。
 凪人がこうやって自分の世界に引き籠っている間にも、世間は変わらず動いている。止まっているのは、自分だけだ……。そう思うと、自分の不甲斐なさに嫌気がさしてくる。


 蓮はアパートの前の横断歩道で、信号を待っていた。その後ろ姿はとても逞しい。凪人には蓮がキラキラと輝いて見えた。
 次の瞬間、蓮がアパートを振り返る。
「ヤバイ。またこそこそ見ていたのを気付かれちゃった……」
 凪人は心臓が止まってしまうのではないか、というくらいびっくりしてしまった。
 蓮はにっこりと微笑んでから、凪人に向かい手を振る。その形のいい唇が「ばいばい」と四文字の言葉を紡いだ。
「蓮君はかっこいいなぁ」
 凪人の胸がキュンと締め付けられる。
 思わず見とれてしまったが、ハッと我に返った凪人とは「ばいばい」と手を振り返したのだった