「凪ちゃん、俺学校行ってくるね」
「ん、んん……」
「テーブルの上におにぎり作っておいたから、食べられるようなら食べて」
 不意に優しく前髪を掻き上げられてチュッと額に口付けられる。その瞬間、トクンと心臓が跳ね上がり、胸が甘く締め付けられた。
「……蓮君?」
「行ってきます」
 突然蓮がアパートにやって来てから、もうすぐ一週間が過ぎようとしている。はじめの頃は、蓮と生活を共にすることに対して強い抵抗があったけれど、そんな凪人の不安とは裏腹に、穏やかな生活が続いていた。
 もうずっと前から一緒に住んでいたのではないかという錯覚さえ覚えるくらい、蓮と過ごす時間は心地がいい。


 蓮は、凪人がなぜこんな生活を送っているか、ということを追求してくることはない。きっと不思議に思ってはいるだろうが、それが彼の優しさなのだろうか……。何も聞かずに、ただ凪人の世話を焼いてくれていた。
「なんでこんな生活をしているか気にならないの?」と、逆に問い掛けたくなってしまうが、聞かれたところで凪人には真実を話すことなんてできない。
 きっと、情けない奴だ……と失望されてしまうことだろう。
 蓮が何を考えているのか? それとも何も考えていないのか? それがわからなくて、凪人は鬱々としてしまった。

 
 凪人は失恋して以来、昼夜関係のない生活を送っていた。早朝に目が覚めることがあれば、夕方までずっと眠っていることもある。
 起きていても、特に何もすることなんてないから、スマホを眺めていたり、漫画を読んだり。だけど何をしていても心が動かされることなんてなかった。
 凪人はもともと裕福な家庭で育ったから、お金に苦労したことはない。だから、こんな堕落した生活は自分だから許されることだ……なんてことはわかっている。全く自立できていない自分に、心底嫌気がさしてしまう。
 ただ茫然と、一日が過ぎていって……虚しさだけが募っていった。


 凪人が目を覚ましたのは、太陽の日差しが降り注ぐ正午過ぎ。あぁ、またこんな時間まで寝てしまった……と自己嫌悪に陥る瞬間。
 テーブルに視線を移すと、大きな三角形のおにぎりが置かれていた。
「あ、蓮君が作ってくれたおにぎりだ」
 今まで劣悪な食生活を送っていた凪人には、手作りのおにぎりが温かなものに感じられる。こんな自分のことを気にかけてくれる蓮の優しさに、鼻の奥がツンッとなった。
「いただきます」
 凪人は両手を合わせてから大きなおにぎりに噛り付く。
「美味しい」
 嬉しくて涙が出そうになった。

◇◆◇◆

「蓮君、まだ帰って来ないのかな……」
 もう何回も時計を見てみるが、時計の針はなかなか動いてはくれない。やっぱり独りぼっちは寂しくて、心が張り裂けそうになる。
「あ、蓮君の足音がする……」
 長いことベッドに蹲っていた凪人が飛び起きる。いつも蓮の帰りを待ち侘びていた凪人は、蓮がアパートの階段を昇ってくる音がわかるようになっていた。耳をすますと、勘違いではなく、蓮の足音がしたのだった。
「近くに蓮君がいる」
 嬉しくて玄関まで走って行った凪人の足が、扉の前でピタッと止まる。やはり、この扉の向こう側にいくことには抵抗があった。
「蓮君、会いたい。会いたいよぉ」
 小さく呟きながら、グズグズと床にしゃがみ込む。
 ずっと待ち侘びた蓮がすぐ近くにいるというのに、蓮の元に駆け付けることさえできない自分が情けない。
「こんなに会いたいのに……」
 凪人は膝を抱えて、体を縮こませる。
「寂しい」
 小さな声で呟いて、唇を噛み締めた。


「凪ちゃん、ただいま。今から夕飯作るからね」
「ん……?」
「帰って来たよ。なんで玄関(こんなところ)にいるの? 体が痛くなっちゃうから早く部屋に行こう」
「蓮君……」
「うん、帰って来たよ。凪ちゃん、お腹空いたでしょ?」
「……お腹空いた……」
「ふふっ。子供みたいで可愛い。ちょっと待っててね、今から作るから」
 自分の体をそっと揺らす蓮。カーテンの隙間から日差しが差し込んでいないから、きっともう日が暮れた時間なのだろう。
 蓮から、ふわっと外の香りがした。
「蓮君、一人で寂しかった。寂しかったよぉ」
 凪人は無我夢中で蓮に抱きつく。外はまだ暑いのだろうか? 帰って来たばかりの蓮の体は汗ばんでいた。なんだか、太陽の匂いもする。
「一人は怖い……誰か一緒にいてくれないと、消えてしまいたくなる……」
「凪ちゃん、何があったの?」
 蓮に優しく問われる。凪人はたくさんの涙を浮かべた瞳で蓮を見上げた。心配そうな顔をしている蓮。胸がギュッと締め付けられる。


 律に捨てられたときに、これからは一人だけで生きていこうと決めた。カーテンを閉めて、自分だけの殻に閉じこもって……。もう誰も信じない。
 それなのに、蓮はそんな凪人だけの世界にいとも簡単に入り込んできた。
 それまでは一人でも大丈夫だったのに、蓮という温もりを知ってしまった途端、今まで以上に凪人は弱くなってしまった。
 誰かに甘える、ということを思い出してしまったから。
 どんどん地へと堕ちていく……そんな恐怖すら感じていた。


「よいしょ」
「わっ! ちょ、ちょっと蓮君⁉」
「大丈夫、落とさないから。しっかり俺に掴まってて」
 突然ふわりと体が浮いたと思ったときには、蓮に横抱きに抱えられていた。思わず全身に力を籠めて降りようと抵抗したが、蓮は気にする様子もなく歩き始める。
「蓮君、下ろして。怖い……」
「だから大丈夫だって。凪ちゃん軽いし」
「でも、それだけじゃなくて……」
 恥ずかしい……、そう言いかけて凪人は口を噤む。顔から火が出そうになったから、蓮の体にしがみついた。
「はい、到着」
 そう笑いながら、蓮はそっとベッドの上に凪人を下ろしてくれる。凪人はようやく体から力を抜くことができた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 しかし凪人をベッドに下ろしても、蓮は凪人に覆い被さったままだ。
 恥ずかしさのあまり、顔を上げることができない凪人の顔を、蓮が覗き込んでくる。でもその顔に先程までの笑顔はなく、不安そうな表情をしていた。


「ねぇ、なんでこんな風に引き籠ってしまったのか……その原因が俺は知りたい。凪ちゃん、俺に全部話してよ?」
「蓮君……」
「お願い、凪ちゃん」
 痛い所を突かれた凪人の呼吸が止まる。
 それでも、すがるような視線で見つめられてしまえば、これ以上は逃げることなんてできない。凪人は深く息を吸ってから、恐る恐る口を開いた。
「あのね……」
「うん。何があったの?」
「蓮君がここにくる少し前に、ずっと一緒にいようって約束していた恋人と別れたんだ。向こうには、俺以外の恋人がいて、その人のお腹の中には赤ちゃんもいるみたい……。それでも俺と一緒にいたいって言われたけど、俺にはそれができなかった」
「凪ちゃん、ずっと一緒にいようって約束した人が、俺以外にもいたの?」
「ごめん、ごめんね……蓮君……。だって、まさかあんな小さい頃の約束を覚えててくれていたなんて、思わなかったから……」
 凪人の瞳にたくさんの涙が溜まると、溜息を吐きながらも蓮が涙を拭ってくれる。でもその顔が、ひどく辛そうに見えた。


「俺と離れてる間、凪ちゃんにそんな相手がいたなんて、すげぇ妬ける。凪ちゃん、俺ね、めちゃくちゃ嫉妬深いんだ。独占欲だって強いし。凪ちゃんは俺だけのものなのに……」
「ごめん……」
「そいつとは体の関係あったの?」
「……うん……」
「もう最悪、許せねぇよ」
 まるで唸るように呟く蓮に、静かに体を寄せる。バラバラになってしまった心と体が「寂しい」と悲鳴をあげていた。
 自分以外の男に抱かれた体を「汚い」と蓮に拒絶されるのではないかと不安だったけれど、蓮はそっと凪人の体を受け止めてくれた。凪人はそれに安堵する。
「俺も、許すように善処するけど、もうその男と会ったり連絡をとったりはしないでね」
「……うん、わかった……」
「約束だからね」
「うん」
 強く自分を抱き締めてくれる蓮の腕に、凪人は自分の体を委ねた。
 お願い、離れていかないで……。そう蓮に言いたかったけれど、そんな都合のいいことなんて言えるはずがない。 
凪人は唇を噛み締めて、蓮の胸に顔を埋めた。


「ごめんね、蓮君。迷惑ばかりかけて」
「大丈夫だよ。……でも、少しだけ時間をちょうだい。俺も心の整理をしたいから」
「うん」
 蓮はいつも優しく頭を撫でてくれる。凪人は、いつからかそれを心地よく感じるようになっていた。
「……俺はなんて駄目な人間なんだろう……」
 同じ年だというのに、しっかり者の蓮を見ていると、更に自分が情けなくなってきた。
 蓮を、別れた男の代わりにしようとしている自分がいることにも気が付いている。そんな凪人は、罪悪感で圧し潰されそうになってしまった。
「もう、消えてしまいたい」
 涙が溢れそうになったから、慌てて手の甲で涙を拭ったのだった。


 凪人が落ち着いた頃、「ご飯は食べないと元気になれないよ?」と蓮が心配そうに声をかけてくれる。
「凪ちゃん、今日は元気が出るように豚キムチにしてみたよ」
「豚キムチ?」
「うん。キムチをたっぷり入れたからね。あ、もしかして凪ちゃん、辛い物苦手だった?」
「そんなことない。辛い物大好きだよ。ありがとう」
「よかった。じゃあ、食べようか」
 凪人の笑顔を見て嬉しそうに微笑む蓮。先程の会話を気にしていないような蓮の素振りに、凪人はホッと胸を撫で下ろす。
「肉もたくさん入れたからね。それにトッピングにはチーズだよ」
 そんな蓮を見ると、凪人の心は温かくなる。
 一人でいるときは笑うことなんてなかったから、自然と口角が上がっていく自分に、最初はびっくりした。心がポカポカと温かくて、でも胸がギュッと締め付けられる。
 ――誰かが一緒にいてくれるって、こんなにも幸せなんだ。
 幸せなのに、苦しい。
 それでも、蓮との新しい生活は凪人にとって、嬉しい変化だった。
「美味しい?」
「うん、凄く美味しい」
「よかった。ほら、凪ちゃん。お肉たくさん食べて? こんなに細いんだから、いっぱい食べなきゃ駄目だよ?」
「あ、うん。ありがとう」
 眉を顰めながら、凪人の器に次々に肉を放り込んでくれる蓮を見ていると、なんだか可笑しくなってしまう。
 豚キムチを食べた凪人は、体だけではなくて、心までも温かくなったのだった。


 ――こんなに穏やかな日々が、ずっと続けばいいのに……。
 そう思いながら、まだ律から連絡がくるスマホの電源をオフにした。もうあの人と連絡をとるのはやめよう……そう心に誓う。
 目の前で楽しそうに色々な話をしてくれる蓮との時間を、大切にしたいと思えたから。

◇◆◇◆

「凪ちゃん。ちょっとこっちに来て?」
「え? あ、ちょっと……」
 蓮が、風呂上がりの凪人の首筋に顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。その至近距離に、心臓が大きく飛び跳ねる。
「凪ちゃん、やっぱりいい匂いがする」
「ちょ、ちょっと蓮君。くすぐったいよ。風呂上がりなんだから、いい匂いがするのは当たり前でしょう」
 恥ずかしくなった凪人は、腕を突っ張って蓮から少しだけ体を離す。それが面白くなかったのか、蓮が唇を尖らせた。
「俺さ……、少し気を抜くと、凪ちゃんに襲い掛かっちまいそうになるときがあるんだ……」
「……え?」
「俺の理性、優秀過ぎじゃない? だって、好きな人とずっと同じ空間にいるんだよ? 普通の大学生なら、もうとっくに襲ってるところだよ」
 そう照れたように頭を掻き毟る蓮。その言葉に凪人の顔も一瞬で茹蛸のように赤くなってしまった。


「俺さ、すげぇ我慢してるんだぜ?」
「な、なんで?」
「なんでって……そりゃあ凪ちゃんを大事にしたいからに決まってるだろう? 俺は、凪ちゃんが俺と結婚してもいいって思うときまで、ずっと待つつもりだから」
「蓮君……」
「子供の頃の凪ちゃんも可愛かったけど、大人になった凪ちゃんもすごく可愛い。でも、俺は我慢する!」
 蓮は照れたようにはにかみながら、凪人の額に自分の額を押し当てる。蓮の吐息が顔にかかり、恥ずかしくなった凪人はギュッと目を閉じた。
「ふふっ。そんなに警戒しなくてもいいよ。ほら、髪を乾かしてあげるから、こっちにおいで」
「……うん」
 ポタポタと垂れる雫をタオルで拭いてくれながら、蓮が微笑む。「まだ髪がびしょ濡れじゃん」とケラケラ声を出して笑っている。
 今日もまた、そんな蓮の笑顔に救われた気がした。


「ねぇ、抱き締めるくらいいい?」
「え?」
「俺、今すごく凪ちゃんを抱き締めたいんだ」
 髪を拭いていた蓮の手が止まり、凪人の耳に唇を押し当ててくる。
「抱きしめたい」。そんなことを蓮が耳元で囁くものだから、くすぐったくて凪人は思わず「ふふっ」と笑ってしまう。触れ合う蓮の顔が熱を帯びていた。
「ねぇ、いい?」
「うん、いいよ。俺も蓮君にギュッってしてもらいたい」
「なにそれ? 超可愛いじゃん」
 照れくさそうにはにかんでから、蓮は凪を自分のほうへと引き寄せて抱き締めてくれた。
 ――あぁ、あったかい……。
 蓮に抱き締められると、温かくてシャンプーの甘やかな香りが鼻腔を擽る。凪人は無意識に蓮の腰に腕を回した。
 トクントクン……。
 高鳴る二人の心臓が、静かな室内に響き渡っているような気がする。蓮の腕の中は温かくて、とても居心地がいい。


「凪ちゃん、超好き」
 甘えたような声を出す蓮を、凪人はそっと見上げる。視線の先には幸せそうに微笑む蓮がいた。
「大好き」
 呪文のように繰り返される言葉に陶酔してしまいそうになる。嬉しくて、幸せで、頭の中がボーッとしてきた。
 ――俺も好き。
 凪人は言いかけた言葉を静かに呑み込む。今の自分には蓮にそんなことを言う資格なんてないと感じたから。
 ただ、こんな幸せな時間がずっと続いて欲しい。そう願ってやまなかった。


「じゃあ、ここに座って? 髪を乾かすから」
「うん」
 名残惜しそうに体を離した蓮が手招きをしている。凪人が蓮の前に座ると、ドライヤーの温かな風が髪を揺らした。それが気持ちよくて、凪人はうっとりを目を細める。
 心地よくて、思わず大きな欠伸をした。
「明日の夕飯なにがいい?」
「また明日も何か作ってくれるの?」
「うん。でも明日はバイトがあるから、帰りが少し遅くなるかも」
「じゃあ、無理して作ってくれなくてもいいよ」
「駄目、俺が凪ちゃんに作ってあげたいの」
「そっか……ありがとう」
 ドライヤーの温かな風と、蓮の大きくてゴツゴツした手はやっぱり気持ちがいい。昼過ぎまで寝ていたのに、ついウトウトしてしまった。


「凪ちゃん、ハンバーグなんてどう?」
「あ、俺ハンバーグ大好き」
「わかった、じゃあ明日はハンバーグにしよう」
「本当に? 楽しみだなぁ」
「うん。俺も」 
「蓮君、ありがとう」
 無意識に自分の髪を乾かしている蓮の手をとって頬擦りをした。そんな凪人を見て、蓮が顔を真っ赤にしながら目を見開いている。それでも、幸せそうに笑っていた。
 明日が楽しみだなんて、一体いつぶりだろうか。今までは明日がくることが、怖くて仕方がなかったから。


「明日が楽しみだなぁ」
 凪人は蓮の大きな手を握り締めながら、そっと目を閉じた。