凪人がカーテンを開けなくなってから、どれくらい経っただろうか……。部屋に掛けられている分厚いカーテンは、上手いこと日光を遮ってくれている。おかげで、凪人の部屋はいつも薄暗かった。
離れて暮らす息子を心配した両親から送られてくる仕送りで、何とか生きてはいけるけど……。大学も休んで部屋に引き籠っているなんて知ったら、きっと過保護な両親はすっ飛んでくるだろう。
ましてや、付き合っていた恋人に捨てられたなんて、口が裂けても言えるはずがない。そんなことが両親の耳に入れば、ようやく実現できた一人暮らしという夢も終わりを迎えることだろう。
更に、一人息子の恋人が男だった、などと聞いたらショックのあまり倒れてしまうかもしれない。
律と別れてもうすぐ一カ月。長かった夏休みも終わりを向かえてしまっている。
カーテンの隙間から外を盗み見れば、季節は秋に向かっているのだろうか。空が急に高く感じられて、窓の隙間から入り込んでくる風も少しだけ冷気を帯びているような気がする。
この一カ月は、凪人を現実から隔離するには十分すぎる時間だった。
こんなことでは駄目だと、勇気を振り絞って窓辺に向かう。思い切ってカーテンと窓を開けてみよう。外から見える景色を眺めて新鮮な空気を吸えば、きっと、前向きな感情が湧き上がってくるかもしれない。
震える手でカーテンに触れようとした手を、凪人は慌てて引っ込める。
「やっぱり怖い」
凪人はその場に崩れるように座り込んだ。
その数日後、お腹が空いた凪人は近所にあるコンビニに行ってみようと思い立つ。
通い慣れたコンビニは店員さんとも顔なじみで、世間話をすることもあった。その人の顔を見れば気分も晴れるだろうか。
「よし、行ってみよう」
凪人は財布とスマホをズボンがのポケットに押し込んで玄関へと向かう。今日はいつもより気分もいいし、足取りだって軽い。もしかしたら、このまま外に行けるかもしれない――。凪人の鼓動が高鳴っていく。
しかし靴を履こうとした瞬間、突然体が凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまった。
「……やっぱり、駄目だ……」
アパートの外に出るということが、こんなにも怖いだなんて思いもしなかった。想像以上に現実の世界から離れてしまっている自分が情けなくて、目の前が涙で滲む。
玄関の扉が、まるで分厚い壁のように感じられた。
「やっぱり、俺はもうこの部屋から出ることはできないんだ」
小さく呟いてから涙を拭う。凪人はそっと踵を返し、室内へと戻ったのだった。
◇◆◇◆
別れてからも、律からの連絡は後を絶たない。付き合っているときは、そんなにマメではなかったくせに、凪人を逃したとわかった瞬間、惜しく感じるようになったのかもしれない。「ごめん」「もう一度やり直したい」というメールで、溢れ返っていた。
「一体何がごめん、なんだろう……」
彼が凪人に謝罪をすれば、今の状況が変わるのだろうか? そんなはずはない。大学を卒業したら、きっと彼は結婚をして幸せな家庭を築くはずだ。
律が、凪人のことを愛してくれていなかった、と言えば噓になる。二人きりのときは大切にしてくれたし、「ずっと一緒にいよう」と約束だってしてくれた。
でも、律は凪人を裏切ったのだ。
凪人が「会いたい」という思いを必死に押し殺していたときも、別の恋人を抱いていたのかもしれない。もしかしたら、自分以外にも同じような思いをしている人間が他にもいるかもしれないのだ。
そう思えば、心がズタズタに切り裂かれて、呼吸ができないくらい苦しくなる。
「あ、これ律さんの洋服だ」
自分の洗濯物の中に混ざり込んでいた律の洋服。そんなものはさっさと捨ててしまえばいいのに……そっと抱き締めて顔を埋める。まるで、律に抱き締められているかのように感じられたから。
「何を見ても、何を聞いても律さんのことを思い出しちゃう……しんどい……」
せっかく瘡蓋になった心の傷は、ほんの些細なことで再び血が流れ始める。それの繰り返しだった。
たかが失恋で、こんなにもボロボロになってしまう自分が情けなくて……。更に、凪人と現実との壁は厚くなっていくのだった。
「寂しい。ヤバイ、死にそう……」
ベッドに敷かれたシーツを握り締めて、孤独を必死に耐える。しかしいくら耐えたところで、寂しさは津波となって凪人を襲ってきた。
「はぁ、しんどいなぁ……」
食事も喉を通らない日々。少し眠ることができたとしても、夢の中まで律は凪人を追いかけてきた。
心はまるで砂漠のようにカラカラに渇き切っている。いくら雨を望んで空を見上げたところで、恵みの雨なんて望めそうにない。
散々律に愛された体だって、寂しいと悲鳴を上げている。こんなに寂しいのであれば、マッチングアプリでも……という考えが頭を過ったが、冷静になった瞬間余計に空しくなるだけだった。
――いっそのこと、あの人の元へと戻ろうか……。
そんな考えが頭を過る。凪人が「寂しいから会いに来て」と連絡をすれば、今なら飛んできてくれるだろう。律が来てくれるだけで、こんな寂しさは簡単に解決してしまうのだ。
凪人はもう何度もスマホを見つめては床に放り投げる、を繰り返していた。
「会いたい」
一人呟いて目を閉じる。
もうずっとちゃんと食事はとれていないし、夜も眠れない。体は悲鳴をあげているけど、心のほうが何倍も辛かった。
◇◆◇◆
「ん? 誰だ」
突然静かな部屋にインターホンが鳴り響く。時計に視線を移すと夜の九時。このアパートは単身者が多いから、子供の声とか物音はあまりしない。そんな中で鳴るインターホンに、少しだけ恐怖心を覚えた。
そう言えば最近、近所で強盗が侵入してきて、住民が怪我をしたという事件が多発しているらしい。警戒するように、といったハガキが警察署から送られてきていたことを思い出した。
今の凪人のところに来る人物と言えば、宅配の人か出前を持ってきてくれる人……でも、そのどちらも身に覚えなんてない。
「まさか、律さんが……」
トクンと心臓が跳ね上がる。
「もしそうだったら……」
自然と鼓動が速くなり、体が徐々に熱くなっていく。緊張から呼吸が浅くなっているのに、期待から胸の高鳴りを抑えることができない。
――どうしよう、扉を開けようか……。
今、扉を開ければきっと全ての苦悩から解放されることだろう。優しく抱き締められて、キスをしてほしい。そして、この寂しさから解放されたい。
でも、自分以外に恋人がいる男に抱かれて、一体何になるというのだろうか? ただ、空しいだけではないだろうか? そう警笛を鳴らす自分もいる。
色々な思いが頭の中を駆け巡り、頭の中がゴチャゴチャしてきて……思考回路が少しずつ鈍っていく。
――もうどうでもいい。この寂しさから解放されるのならば……。
凪人は、「どちら様ですか?」と聞くことさえせず、扉へ向かった。今の時代、それがどれほど危険なことかなんて百も承知だ。でも、それ以上に、自分に会いに来てくれたという事実が嬉しくて。
「会いたい」
瞳から涙が溢れ出す。
――もうどうにでもなれ。
凪人は勢いよく扉を開けたのだった。
「……あれ? 凪ちゃん?」
「え?」
扉を開けるとそこに立っていたのは、凪人の想像していた人物ではなかった。
「しまった……」
迂闊過ぎた自分を強く呪う。こんな簡単に扉を開けてしまったけれど、今目の前にいる人物が強盗などの犯罪者だったとしたら……、自分はどうなってしまうだろうか? 一瞬で体から血の気が引いていくのを感じた。
「凪ちゃんだよね?」
「…………」
目の前にいる人は、元恋人ではなかったけれど、どうやら凪人のことを知っているらしい。「凪ちゃん」なんて、極一部の、しかも親しい人しか呼ばないはずなのに。凪人は強い戸惑いを感じた。
しかも、自分のことを「凪ちゃん」と呼ぶ人物はモデルのように背が高く、人形のように整った顔をしている。
長い睫毛が影を落とし、スッと通った鼻筋。色素の薄い髪がサラサラと揺れた。
――誰だ、このイケメンは。
想像もしていなかったイケメンの登場に、凪人は思わず息を呑む。元恋人は、お世辞にもイケメンではなかったから。一体こんな夜に、このイケメンは何をしに来たのだろうか。
突然強い恐怖に襲われた凪人が勢いよく扉を閉めようとすると、「おっと」といとも簡単に片手で押さえられてしまう。
しばらくの間押し問答をしていたけれど、力では敵わないと諦めた凪人は、恐る恐るその人物を見上げた。
「ど、どなた様ですか?」
「え? 凪ちゃん、俺のこと覚えてないのか?」
「凪ちゃんって……君は俺のことを知ってるの?」
「知ってるも何も……それより……」
「わっ!」
突然イケメンの顔が近付いてきたから、夢中で腕を突っ張らせるが、そんな凪人の抵抗も微々たるものでしかない。簡単に両腕を押さえ込まれ、まじまじと顔を覗き込まれた。
ただそれだけのことで、凪人の体は跳ね上がるほど反応してしまう。心臓が口から飛び出してきそうだ。
「凪ちゃん、もしかして、泣いてた?」
「あ、え、えっと……」
「目がすごく腫れぼったいよ」
「そ、そんなの君には関係ないだろう?」
「関係ある! 俺は凪ちゃんが泣いてたなんて嫌だもん!」
「な、なんでだよ? 大きなお世話だよ」
「そんなことない! そんな悲しいこと言わないでよ!」
突然目の前に現れた男の剣幕に、凪人は段々イライラしてしまう。
先程まで泣いていたかと言われたら、確かにその通りだが……。つい先程会ったばかりの人物に、そんなことを指摘される筋合いはない。非常識もいいところだ。
「ふざけんな、離せよ!」
「嫌だ、離さない」
「なんなんだよ君は⁉ 俺が泣いてようが君には関係ないだろう?」
「関係ある! 関係あんだよ!」
「なんで⁉」
掴まれた手を振り解こうとしても、やはり力でこの男には適うはずもない。凪人は奥歯を噛み締めながら男を睨みつける。
もう、意味がわからなくなってきた。一体、こいつは何者なのだろうか。
「凪ちゃんは俺の花嫁になる人だ。だから、関係ないなんて言わせない!」
「……花、嫁……?」
「そうだよ! 子供の頃、約束しただろう? お互いが二十歳になったら結婚しようって。もうすぐ俺の二十歳の誕生日だ。だから迎えに来た」
「なんだよ、それ……。君、頭おかしいのか?」
「いたって正常だ」
男は凪人の腕をそっと離し、髪を撫でてくれる。
「俺のお嫁さんになってほしい」
そう言いながら凪人を覗き込んでくるその瞳は、不安そうに揺れていて……。その言葉が冗談なんかではないことが、ひしひしと伝わってくる。
「凪ちゃん、俺のお嫁さんになって?」
凪人は何も言い返すことができないまま、目の前のイケメンを茫然と見つめた。
◇◆◇◆
「とりあえず、家の中に入れてよ」
最終的には強引に扉を開けられてしまい、無遠慮に部屋へと上がり込まれてしまう。見ず知らずのイケメンに手を引かれ、リビングへと戻ってきた凪人は、その男の顔をまじまじと眺める。
先程の話からして、きっと凪人とこの男は同じ年に違いない。でも、凪人は誰かと結婚の約束をしたことがあるのだろうか……。必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
「こいつ、やけに見た目がいいから結婚詐欺師とか?」
それに正直なところ、まだこの男のことを完全に信用したわけではない。何か犯罪に巻き込まれるのではないか……、そんな恐怖心が拭いきれない。
でもそんな凪人のことなどお構いなしに、突然の訪問者は人懐こい笑顔を凪人へと向けた。
「俺、ずっとずっと凪ちゃんに会いたいと思ってたんだ。だから、会えて嬉しいよ」
「は?」
そう照れくさそうに笑う笑顔に、凪人は見覚えがあった。
――あ、この人、もしかしたら……。
「二十歳になったら結婚しようね」
記憶の片隅にある甘酸っぱい思い出。その芽がむくっと地上に顔を出したように感じた。
「君、もしかして、蓮君?」
「ふふっ。やっと思い出した? そう俺は、名取蓮だよ」
「……マジか、蓮君だ……。あんなに小さかった蓮君が、こんなイケメンに成長するなんて……」
「ふふっ。凪ちゃんは、しばらく見ないうちに本当に可愛くなったね。さすが俺の結婚相手だ」
「け、結婚相手だなんて……あんな子供の頃の約束を本気にしてるのか?」
凪人は真ん丸な目を更に見開いて蓮を見上げる。
だって、あの約束をしたのは本当に幼かった頃だ。その約束を律義に守るだなんて馬鹿真面目にも程がある。
「凪ちゃんはあんな約束忘れちゃったかもしれないけど、俺は本気だよ」
「……なんで?」
「だって、凪ちゃんは俺の初恋の人だから」
恥ずかしいのだろうか? 前髪を掻きむしる蓮。その姿は確かに昔の名残はあるけれど、すごくかっこよくて……心がざわざわと波打つ。
こんなイケメンが自分と結婚したいだなんて、まるで夢をみているようだ。もしかしたら、恋人にふられた哀れな男に、神様がプレゼントを贈ってくれたのだろうか?
だって、それ以外は考えられない。
今こうして蓮が自分に会いに来てくれたことが、嬉しくもあった。
「ありがとう。 ……俺、蓮君のことをついさっきまで忘れてたくせに、会えて嬉しい。こんなの都合がいいよね? ごめん」
「そんなことないよ。俺は、俺のことを思い出してくれただけで十分嬉しいから」
「蓮君……」
優しく笑いながら髪を撫でられると、凪人の心が熱く震える。こんな風に誰かに髪を撫でられたのなんて、久し振りだったから。
心がいっぱいになった凪人は、無意識に蓮の腰に腕を回して体を寄せた。久しぶりに感じる他人の温もりに胸が熱くなる。
――あったかい。
大きくてゴツゴツした蓮の手が気持ちよくて、凪人はそっと目を閉じる。蓮を抱き締める腕に力を籠めた。
「あのさ、すごく可愛いんだけど、少し離れてくれないかな?」
「あ、ご、ごめん」
いつの間にか蓮の洋服を握り締めていた凪人は、ハッと我に返り体を離した。久しぶりに会った蓮にこんなにもときめいてしまうなんて……、あまりにも移り気な自分に嫌気がさしてしまった。
「いや、別にくっついてもらう分にはいいんだけど、久しぶりに会った凪ちゃんが想像以上に可愛かったから……。俺、今めちゃくちゃドキドキしてるんだ。調子にのって凪ちゃんを襲っちゃうかもしれないから、今は少し距離を置いたほうがいいかも……」
「え? 襲っちゃうって……」
「ふふっ。凪ちゃん、俺はもう凪ちゃんの知っている俺じゃなくて、大人の男なんだよ? そこ、わかってる?」
「…………」
「大人の男に成長した俺を見て欲しくて……。凪ちゃんと結婚したくて、こうやって迎えにきたんだよ」
「ひ、久し振りに再会していきなり結婚だなんて……蓮君は気が早すぎだよ。俺、正直どうしたらいいかわかんないんだけど……」
「ふふっ。悩んでる凪ちゃんも可愛いなぁ」
「なんだよそれ、俺はこんなにも真剣に悩んでるのに……」
「そうだね、ごめんごめん」
そう照れくさそうに笑う蓮を見ていると、不思議と元気になる自分がいる。凪人は、久しぶりに肩の力が抜けていることに気付いて、驚きを隠すことができなかった。
「大体、今の日本では同性同士じゃ結婚なんてできないだろう?」
「うん。今の日本ではね」
蓮の含みのある言い方に、凪人は思わず首を傾げた。
「俺は凪ちゃんと結婚するためならなんだってするよ。お互いの両親に頭を下げる覚悟だってあるし、いざとなったら日本を出ればいいだけだ」
「なんだよ、それ……」
「結婚なんて子どもっぽいって思われるかもしれないけど、俺は本気だよ。俺は絶対に凪ちゃんと結婚してみせる」
そう自信満々に言い放つ蓮を見ていると、本当に蓮と結婚できるような気持ちになるから不思議だ。
「俺、蓮君と本当に結婚するのかな」
そう思ってしまう自分が不思議でならなかった。
「凪ちゃん夕飯まだ? いまから俺が何か作るよ。えっと、リビングの電気はこれかな?」
「あ、ちょっと待って! 蓮君、電気はつけないで!」
「え? なんで? 大体、凪ちゃん部屋の電気もつけず真っ暗な中、何してたの?」
リビングの電気を付けようとした蓮の腕にしがみついたけれど、あと一歩間に合わず……。部屋に明かりが灯されてしまった。
――あぁ、もう終わりだ。
凪人はガックリと肩を落とす。
失恋してから約一カ月。家事もほとんどしていなかったリビングは荒れ放題で……イケメンへと成長した蓮を、招き入れられる状態ではないのだ。
ごみ捨てにも行かないから室内にはごみが散乱し、脱ぎ散らかされた洋服はそのまま床に放り投げてある。カップラーメンの空き容器やお菓子の空き袋……それに、無造作に積まれた本の山。もはや、足の踏み場もないほどにリビングは荒れ果てていた。
「凪ちゃん、この部屋は……」
「ごめん、ずっと掃除してなくて……」
「とりあえず窓を開けてもいい? ちょっと臭うから」
「あ、カーテンだけは開けないで!」
凪人が大声を出せば、カーテンを開けようとした蓮の手が止まる。びっくりしたような顔で、凪人を見つめていた。
「お願い……カーテンだけは開けないで……」
「どうした? 凪ちゃん。顔が真っ青だよ? もしかして何かあったのか?」
蓮の手が、そっと凪人の頬に触れられる。
「凪ちゃん、震えてる」
何も言わず俯く凪人の様子を窺いながら、蓮が遠慮がちに抱き締めてくれた。
大きくて逞しい蓮の腕の中で、どんどん感情が高ぶってく。今までずっと耐え忍んできた、苦しさや寂しさ……そういった感情が津波のように押し寄せてくるのを感じる。
凪人の心の中で、プツンと何かが切れた瞬間だった。
「蓮君……ふぇ……俺、俺……」
「よしよし、何か辛いことがあったんだね? 可哀そうに」
「俺、俺……苦しいし、寂しい……」
「うん。わかった。泣いてもいいよ。ずっとここにいるから」
蓮の腕の中は温かくて心地いい。
凪人はようやく息をすることができたような気がする。優しく背中を擦ってくれる蓮の手が、とても心地よかった。



