「俺、お前の他にも付き合ってる奴がいて……その人が妊娠しちゃったんだ。でもさ、俺は何人だって同時に愛せるタイプだから、お前のことだって……」
「…………」


 青天の霹靂とはこういうことを言うのだろう。思考のまとまらない頭で凪人(なぎと)は思った。
 別に「運命の人」なんて信じてはいなかったけれど、こんな結末はあんまりではないか。 


 確かに百瀬凪人(ももせなぎと)は、飛び抜けて器量がいいわけではないし、裕福な家庭に育ったものの、両親の能力など何一つ受け継いでなどいない。実に平平凡凡な大学生。
 これといった長所なんて、何一つ持ち合わせてなどいない。
 だからといって、こんなの酷すぎる。しかも、今日は凪人の二十歳の誕生日だというのに……。
 季節は夏で、夕暮れになっても蒸し暑さはなかなか解消されない。温い図書館のエアコンに額から汗が流れ落ちてくるのに、指先は震える程冷たい。
 今目の前で、頭を掻きながら気まずそうに笑う男を、ずっとたった一人の恋人だと思っていた自分が情けなくなってしまった。


「そんな……(りつ)さんを、ずっと信じてたのに……」


 泣き叫びたいくらい悲しいのに、なぜだろうか? 涙が出てきてくれない。ポツリ呟いて、唇を噛み締めたまま俯いた。
 こんな男だって、凪人はずっと愛してきたのだ。いつか、一生添い遂げられるパートナーになれると信じて。その人のたった一人のパートナーに、だ。
 律の言う通り、この男は同時に何人もの人間を、しかも性別に関係なく愛することができるのかもしれない。でも、普通はそんなことはできないだろう。
 いくら取り柄がないと言っても、世間一般的な常識くらい凪人は持ち合わせているのだ。
 ――俺には、あんたの考えが理解できない。
 唇を噛んで拳を握り締める。それでも、すぐに馬鹿らしくなってしまい、スッと全身の力を抜いた。


「凪人、俺はお前が可愛いんだ。一生大事にするから、これからも恋人でいよう? 奥さんになる人には絶対バレないようにするから、凪人は何も心配はいらないよ」
「……大事に、する?」
「あぁ。大事にするよ」
 こんな甘い言葉は、きっとこの場を取り繕うための出まかせだ。そんなことはわかりきっているのに、この嘘に縋りつきたくなる弱い自分もいる。
 ――一人は寂しい。
「ほら、凪人」
 差し出された手を静かに見つめる。この手を取れば、寂しい思いをせずにいられるのだろうか? 自分は幸せになれるのだろうか? 心が静かに葛藤を始める。
「凪人」
 もう一度名前を呼ばれて優しく髪を撫でられてしまえば、この手を振り払うことなんてできるはずがない。
 凪人は律に向かって、そっと手を伸ばした。


(なぎ)ちゃん、俺たちが二十歳になったら結婚しよう? 俺、二十歳の誕生日に、絶対凪ちゃんを迎えに行くから!」


 ――なんだ、これ。
 突然記憶が詰め込まれていた箱の蓋が開いて、忘れていた思い出が溢れ出したのを感じる。


「凪ちゃん、大人になったら結婚しようね。俺、それまでに凪ちゃんを守ることができるような強い男になるから。だから、俺のことを待っててね」


 幼い頃の甘酸っぱい思い出が、まるで走馬灯のように頭を駆け巡っていった。
 ――あぁ、俺はこんな風に純粋に恋をしていた頃があったんだ。
 それに気付かされた瞬間、今の自分がひどく汚れたものに感じられる。一人は寂しいとか、苦しいとか……。そんなことに、思考を支配されてしまっていた。
 凪人は大きく息を吸ってから吐き出す。それから覚悟を決めて顔を上げた。


「俺は……、俺はその人の、たった一人の恋人でありたい。二番目や三番目じゃなくて、一番がいいんだ」
「凪人、でも……!」
「さよなら」
 最後の最後まで言おうか悩んだ言葉を絞り出す。一人になることは怖かったけれど、これ以上惨めな思いはしたくはなかったから。
「さよなら」
 自分の腕を掴もうとする律の手を振り払い、凪人は走り出す。
「はぁはぁはぁ……」
 普段運動をしていない凪人は、少し走っただけで息が上がる。苦しくて肩で呼吸をしながら走り続けた。
 辛くて、苦しくて、心がバラバラになってしまいそうだ。今まで、凪人を支えてきたものがガラガラと音をたてて崩れていくのを感じる。
「畜生、畜生……!」
 悔しくて、悲しくて……今になって涙が溢れてくる。


 アパートの階段を駆け上がり、力任せに扉を閉めた。
 部屋の中には悲しいくらい、つい先程まで恋人だった律の私物と、楽しかった思い出で溢れている。また涙が溢れ出した。
「好きだったのになぁ……」
 リビングに置いてあるベッドに倒れ込む。呼吸が苦しいし、全身から力が抜けてしまって、立っていることもできない。どうやって帰って来たのかさえ、記憶が曖昧だ。
 自分は、あの人とずっと一緒にいるのだと、今日まで疑いもしなかった。心が爆発しそうになったから、綺麗に張られたシーツをギュッと握り締めた。
「俺はあの人の、たった一人じゃなかったんだ」
 溢れ出した涙は、二人で抱き合ったベッドのシーツに音もなく吸い込まれていって、たくさんのシミを作った。
「もう消えちゃいたい……」
 凪人は声を押し殺して泣くことしかできなかった。


 その日から、凪人は部屋のカーテンを閉めきって、自分の殻へと閉じ籠った。
 明るい日差しも、他人が楽しそうに笑う顔も、幸せそうなカップルも、家族も……見たくなんてない。凪人は律の子どもを身籠ることはできないけれど、一生添い遂げる覚悟でいた。
 そんな凪人の夢が、あっけなく崩れ去ってしまったのだ。
「もう、これ以上傷つきたくなんてない」
 凪人は目を閉じて、耳も覆う。
 こんなにも心はボロボロなのに、律に抱かれた体が寂しくて疼き出す……。そんな惨めな自分が情けなくて、再び涙が溢れ出した。