薄曇りの午後。風はやや湿り気を帯び、竹の葉が静かにこすれる音が境内に漂っていた。響寺の奥、稽古場として使われる畳敷きの広間に、一人の少女が元気な声を響かせて現れた。
「やっほー、智子さん! 今日もやってる?」
ぱたんと木戸が開く音と共に、姿を見せたのは夕貴だった。小柄な体に明るい紺の稽古着、頬にはほんのり紅が差しており、その目は生き生きと輝いている。彼女は拓巳の屋敷で織物助手をしている若き職人で、智子より少し年下ではあるが、誰よりも素直で行動的だった。
「今日から一緒に稽古するよう言われてさ。……よろしくね!」
笑顔を浮かべて手を振る夕貴に、智子は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。だが次の瞬間には、穏やかな笑みを浮かべて軽く会釈する。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は並んで畳に正座し、老僧・響から差し出された巻物を広げた。そこには所作や礼の作法、仮面舞踏会で求められる詩歌や歩法など、数多の課題が丁寧に記されていた。
「この“袖返し”っての、どうするんだっけ?」
夕貴が指差した動作を見て、智子は迷いなく応じる。
「右手を少し外に開いてから、肘を使って滑らせるんです。こう……空をなでるように」
智子はゆったりと腕を動かし、静かな所作を披露した。その様子に、夕貴は感心したように目を丸くする。
「へえ、なるほど……でも、ちょっと堅い気がするなぁ。もうちょっと、柔らかくていいんじゃない?」
その言葉に、智子は眉を寄せた。自分では丁寧に動いているつもりだったが、それが“堅い”と見えるのか――初めて気づかされる感覚だった。
「えっ……そ、そうですか?」
少し戸惑いを含んだ声に、夕貴は真剣な眼差しで応じた。
「だってさ、仮面をつけてるんだし、動きだけで感情を伝えなきゃ。もっと“物語る”感じっていうか。気持ちを手や背中に込める感じでさ」
智子は言葉を飲み込み、黙って自分の動作を省みた。たしかに、動きに感情を込める意識は薄かったかもしれない。
しかし、その直後――彼女もまた、素直な視点で指摘を返した。
「でもね、夕貴さんの足さばきは、ちょっと速いです。所作が軽く見えてしまいます」
「えっ、マジ?」
夕貴はぴたりと動きを止め、首を傾げた。自分の動きにそんな印象があるとは、思いもよらなかったようだ。
「私、元気すぎるかな……」
「元気なのは、いいことです。だからこそ、足元だけは静かにして、差をつけたほうが――」
そう言いかけたところで、智子ははっとして言葉を切った。夕貴もまた口を閉じる。稽古場に、ぴんと張り詰めたような沈黙が広がった。
――意見の違い。互いに真剣だからこそ、ぶつかってしまう。
二人とも、相手を否定したかったわけではない。ただ、それぞれが誠実に気づいたことを、精一杯言葉にしただけだった。
その静寂を破ったのは、夕貴だった。
「……ごめん。言われてみれば、私、勢いばっかで突っ走ってたかも。ありがと。気づけた」
軽く笑いながら、けれど誠意を込めて差し出された言葉。智子ははっとして、すぐに深々と頭を下げた。
「私も、言いすぎました。夕貴さんの柔らかさ、私にはないものですから……学ばせてください」
二人は見合って、ふっと笑った。わだかまりは溶け、稽古場の空気は穏やかさを取り戻した。
その後の稽古は、不思議と息が合った。指先の動きも、足さばきも、互いに補い合いながら磨かれていく。
違いは壁ではなく、重ね合う彩りとなっていく――
そんな手応えが、ふたりの胸に確かに宿っていた。
「やっほー、智子さん! 今日もやってる?」
ぱたんと木戸が開く音と共に、姿を見せたのは夕貴だった。小柄な体に明るい紺の稽古着、頬にはほんのり紅が差しており、その目は生き生きと輝いている。彼女は拓巳の屋敷で織物助手をしている若き職人で、智子より少し年下ではあるが、誰よりも素直で行動的だった。
「今日から一緒に稽古するよう言われてさ。……よろしくね!」
笑顔を浮かべて手を振る夕貴に、智子は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。だが次の瞬間には、穏やかな笑みを浮かべて軽く会釈する。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は並んで畳に正座し、老僧・響から差し出された巻物を広げた。そこには所作や礼の作法、仮面舞踏会で求められる詩歌や歩法など、数多の課題が丁寧に記されていた。
「この“袖返し”っての、どうするんだっけ?」
夕貴が指差した動作を見て、智子は迷いなく応じる。
「右手を少し外に開いてから、肘を使って滑らせるんです。こう……空をなでるように」
智子はゆったりと腕を動かし、静かな所作を披露した。その様子に、夕貴は感心したように目を丸くする。
「へえ、なるほど……でも、ちょっと堅い気がするなぁ。もうちょっと、柔らかくていいんじゃない?」
その言葉に、智子は眉を寄せた。自分では丁寧に動いているつもりだったが、それが“堅い”と見えるのか――初めて気づかされる感覚だった。
「えっ……そ、そうですか?」
少し戸惑いを含んだ声に、夕貴は真剣な眼差しで応じた。
「だってさ、仮面をつけてるんだし、動きだけで感情を伝えなきゃ。もっと“物語る”感じっていうか。気持ちを手や背中に込める感じでさ」
智子は言葉を飲み込み、黙って自分の動作を省みた。たしかに、動きに感情を込める意識は薄かったかもしれない。
しかし、その直後――彼女もまた、素直な視点で指摘を返した。
「でもね、夕貴さんの足さばきは、ちょっと速いです。所作が軽く見えてしまいます」
「えっ、マジ?」
夕貴はぴたりと動きを止め、首を傾げた。自分の動きにそんな印象があるとは、思いもよらなかったようだ。
「私、元気すぎるかな……」
「元気なのは、いいことです。だからこそ、足元だけは静かにして、差をつけたほうが――」
そう言いかけたところで、智子ははっとして言葉を切った。夕貴もまた口を閉じる。稽古場に、ぴんと張り詰めたような沈黙が広がった。
――意見の違い。互いに真剣だからこそ、ぶつかってしまう。
二人とも、相手を否定したかったわけではない。ただ、それぞれが誠実に気づいたことを、精一杯言葉にしただけだった。
その静寂を破ったのは、夕貴だった。
「……ごめん。言われてみれば、私、勢いばっかで突っ走ってたかも。ありがと。気づけた」
軽く笑いながら、けれど誠意を込めて差し出された言葉。智子ははっとして、すぐに深々と頭を下げた。
「私も、言いすぎました。夕貴さんの柔らかさ、私にはないものですから……学ばせてください」
二人は見合って、ふっと笑った。わだかまりは溶け、稽古場の空気は穏やかさを取り戻した。
その後の稽古は、不思議と息が合った。指先の動きも、足さばきも、互いに補い合いながら磨かれていく。
違いは壁ではなく、重ね合う彩りとなっていく――
そんな手応えが、ふたりの胸に確かに宿っていた。



