その寺は、桜洛の北外れ――街の喧騒が届かぬ、ひときわ静かな竹林の奥にひっそりと建っていた。

 鳥の声すら遠く、竹の葉が風に鳴る音だけが耳に届く。まるで空気が層を変えたように、寺域に足を踏み入れた瞬間から、世界がひとつ薄暗く、冷たく、そして凛としたものに変わっていく。

 智子は、苔むした石段の手前で立ち止まった。目の前にあるのは、黒塗りの簡素な山門。装飾は一切なく、時の流れだけが木の表面を削っていた。

 それでも、そこには確かな威厳があった。

 「……ここが、響寺」

 小さく呟いてから、智子は胸の前でそっと手を合わせた。

 その動作には、畏れと敬意が込められていた。門前に立つだけで、なぜか背筋が伸びるような空気。ここがただの寺ではないことは、誰でも感じ取れる。竹が揺れるたびに、呼吸も浅くなる気がした。

 彼女がここを訪れたのは、拓巳からの命によるものだった。

 仮初の姫としての立ち振る舞い――それを学ぶには、書ではなく“人”から習え。そう言われて渡されたのが、この響寺の名だった。

 仮の姫。仮の身分。だが、そこで求められる所作は本物でなければならない。目に見えぬ武器としての振る舞い。その鍛錬のために、智子は静かに門をくぐった。

 軒先に人影があった。

 竹の影が斜めに差し込むなか、一人の老僧が、鉄瓶から茶を注いでいた。白い湯気が静かに立ちのぼり、湿り気を帯びた竹林の空気と混ざり合う。

 その男が、顔を上げた。

 「お前が、あの“仮の姫”か」

 年齢は七十を越えているだろうか。だが、声はよく通り、何よりもその眼差しが鋭い。老いてなお、芯が折れていない。そう思わせる存在感があった。

 衣は質素だが乱れておらず、姿勢には一分の狂いもない。見る者に“整っている”という印象を自然に与える、そんな人物だった。

 「私は響。この寺の主だ。……精進する気があるなら、ついてこい」

 声には叱咤も優しさもなかった。ただ、試すような静けさがあった。言葉そのものよりも、“姿勢”を見られている気がした。

 智子は無言で一礼し、響の後ろ姿を追った。

 寺の奥へ進むと、通されたのは畳敷きの小さな道場だった。

 障子を通して柔らかな陽が差し込んでいる。だが、その光はやや心細く、清廉というよりは試されるような寒さを含んでいた。壁には何の装飾もない。掛け軸すらなく、ただ空間だけがそこにあった。

 智子が正座を整えると、響は文机に近づき、引き出しから一本の巻物を取り出した。広げると、そこには筆文字でびっしりと所作の指示が記されている。

 「これは宮中歌会の古式礼法だ。だが、紙の上で覚えても、意味はない」

 響は言い切るように言うと、その場で立ち上がった。

 「まずは身体で覚えろ」

 そう言って、畳の上に音を立てぬようそっと一歩踏み出した。

 その動作は、驚くほど滑らかだった。

 背筋を伸ばし、首をわずかに傾け、視線を下げたまま数歩。手のひらを返す所作すら、風が水面を撫でるように柔らかい。それでいて、どこにも迷いがない。

 呼吸と動作が一体となり、指先にまで意識が行き届いている。舞と呼ぶには地味すぎる。だが、確かにそれは“振る舞い”だった。芯の通った、偽りなき静かな動き。

 智子は、思わず見とれていた。

 “こういうものなのか”と、自分の常識が一つずつ崩れていく感覚。

 「どうした、やってみよ」

 その一言に、智子は我に返った。

 「……はい」

 息を整え、彼女も立ち上がる。ぎこちないながらも、響の後をなぞるように動き始めた。

 最初の一歩で、早速、着物の裾を踏んだ。

 袖が肘に引っかかり、バランスを崩す。背筋もすぐに曲がる。だが、智子は止まらなかった。

 一度や二度では終わらない。何度も、何度も同じ動きを繰り返す。そのうち、額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。

 それでも、彼女は拭おうとしなかった。

 「姫は、足元から学ぶものだ」

 響の声が、低く、しかし澄んで響く。

 「挑戦を恐れぬ者は、まず土を知る。華やかさの裏には、泥があると知れ」

 その言葉は、命令でも叱責でもない。事実として語られていた。

 智子は頷くこともせず、ただ呼吸を整えながら、また一歩、舞うように足を運んだ。

 ――私は今、“仮の姫”になるための土を踏んでいる。

 そう自覚したとき、汗が熱に変わった気がした。

 やがて、陽が西に傾き、障子の向こうに竹の影が長く伸びる頃。響は動きを止め、静かに智子の姿を見つめた。そして、一度だけ、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 「……お前には芯があるな。派手な飾りはつけなくていい。その芯があれば、偽りの姫でも、人の心を動かせる」

 その言葉に、智子は深く頭を下げた。

 言葉よりも、姿勢で。技よりも、信念で。
 老僧が教えてくれたものは、形にできない“礎”だった。

 この道の先に、何が待っているかはわからない。
 けれど、恐れずに踏み出す――その意味を、智子は確かに学び始めていた。