春も終わりが近づくある朝、庭の白砂を歩く男の姿があった。

 陽はまだ高くない。夜明けの名残が空に薄く漂い、庭の梅の若葉がかすかに朝露を湛えている。空気には、夏へ向かう微かな気配が混じり始めていたが、それでもまだ、風は冷たさを手放していなかった。

 白砂を敷き詰めた庭は、まるで波打たぬ海のように静まり返っている。そんな庭の中央を、一人の男が歩いていた。

 その男――拓巳は、黒い袴をまとっていた。

 だが、その裾は一度も砂を巻き上げない。歩幅も音も乱さず、風のように、影のように進んでいく。まるで白砂にすら存在を拒まれぬ者のようだった。

 彼の眼差しは常に先を見ていた。どれほど静かな朝であろうと、その眼は眠らない。策略を巡らせ、盤面を読み、先手を打ち続ける。それが拓巳という男の“日常”であり、“闇”だった。

 その背後から小さな足音が近づく。

 「智子。来い」

 庭を横切る彼の背に、突然その声が投げかけられた。凛とした声ではあったが、声量は控えめで、命令というより選択肢の提示に近かった。

 戸口のほうで、機の前に座っていた智子が顔を上げた。指先にはまだ一本の針が握られており、その先に通した絹糸が、陽の光を受けて細く光っていた。

 「……はい」

 針を布に刺しかけたまま、智子はそっと立ち上がった。彼女の動きは迷いがちで、足元もやや不安定だったが、表情には決意の影が浮かびつつあった。

 拓巳は座敷へと先に入ったが、襖を閉めることはしなかった。風通しのよいその空間に、彼の背中がすっと溶け込んでいく。智子も指示に従って、ゆっくりとその場に座る。対面に座る彼との距離は、物理的には近いはずなのに、どこか測り難い隔たりがあった。

 「今夜、ある屋敷の茶会に客人として潜入してもらう」

 何の前置きもなく、拓巳は告げた。

 その言葉に、智子の手がかすかに震えた。予想もしなかった展開だった。目を見開き、思わず息を呑む。

 「……私が、ですか」

 その問いは、疑念と恐れを含んでいた。自分が茶会に――それも、潜入という形で――など、現実感がなさすぎる。

 「そうだ。仮初の姫として。名と身分は偽装する。所作と振る舞いさえ守れば、咎められはせん」

 拓巳はごく自然にそう答えた。まるで“機の調整を頼む”程度の事務的な話に聞こえるほどに、彼の声に迷いはなかった。

 智子はまだ理解が追いつかないまま、拓巳の指先を見つめた。彼が広げたのは巻物。薄い絹紙に描かれた屋敷の見取り図だった。

 「この茶室の脇に、小さな納戸がある。そこに“文箱”が運び込まれる。それを確認し、銘と印を記憶して帰れ」

 地図の上に細い筆跡で記された文字。廊下の構造、灯りの配置、そして見張りの位置。細部まで読み込まれた計略の布石が、すでにそこには描かれていた。

 智子は拓巳と巻物を交互に見た。言葉がうまく出てこない。任務の内容は明確だ。だが、それ以上に問題なのは――自分がその任務に耐えうるかどうか。

 「でも……私、人を騙すのは……」

 その言葉は、彼女の中で葛藤の末に出てきた誠実な抵抗だった。自分の心に嘘をついて、誰かを欺くことが、果たして許されるのか。

 拓巳は、すっと目を細めた。

 「騙すのではない。舞うのだ」

 言葉は硬質で、それでいて不思議な説得力があった。

 「仮面をつけて、誰かになりきる。それは演技だ。演技は、真実を見破る者にしかできん」

 智子の目が、わずかに揺れた。

 智子は黙り込んだ。

 拓巳の言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。確かに、それはただの“偽り”ではないのかもしれない。誰かになりきるということ。それは嘘をつくことではなく、誰かの姿を借りて真実に触れるという行為なのか――

 だがそれでも、心の中では明確な“リスク”の声が鳴っていた。

 間違えたらどうなる?
 失敗したら?
 言葉遣い一つで疑われたら?
 正体が露見したら、相手は貴族。どんな罰が待つか、想像もつかない。

 「私に、そんなこと……できるでしょうか」

 不安に押しつぶされそうになりながら、ぽつりと漏らしたその疑問に、拓巳は即答しなかった。

 代わりに、ゆっくりと懐から小箱を取り出す。

 木箱の蓋を開けると、そこに収められていたのは一枚の仮面だった。白地の薄布に、金糸で繊細な刺繍が施されている。蝶のような模様と、波打つような縁取り。顔半分を覆うその布は、見る角度によってわずかに光を返す。

 「これは、かつて“舞姫”と呼ばれた密偵が用いたものだ。表情を隠し、声を変え、動きだけで真意を伝える」

 拓巳は仮面を智子の前に差し出した。

 「お前に、それができるかどうかは――お前が決めろ」

 それは試練ではなく、選択だった。命令ではなく、問いかけ。乗るか、退くか。引き受ける覚悟があるか。

 智子は仮面を見つめた。

 その布の中に、自分の“これから”が映っているような気がした。何者にもなれなかった自分が、何者かを演じる。光の中へ出るための、最初の一歩。

 震える指先をそっと伸ばし、仮面を持ち上げる。軽い。だが、その重みは心の奥まで響いた。

 「……学ばせてください。舞い方を、仮面のつけ方を、姫の歩き方を」

 その声には、不安とともに、確かな決意が宿っていた。

 拓巳はそれを聞いて、わずかに口角を上げた。珍しく、目に柔らかな光が灯った。

 「その誠実さがあれば、十分だ」

 それ以上、彼は何も言わなかった。教えすぎることはしない。だが見守ることを、決してやめるつもりもなかった。

 智子は仮面を胸に抱き、ゆっくりと立ち上がった。足取りはまだ硬く、揺れていた。けれど、それでも確かに前を向いていた。

 こうして、貧民街の機織り娘は――
 “仮初の姫君”として、初めて諜報の舞台に足を踏み入れることとなった。

 布の仮面が、やがて真実と偽りの狭間で、彼女の未来を織り上げていくことになるとも知らずに。