屋敷の一角、他の部屋とは隔てられたようにひっそりと佇む、板張りの作業場があった。光が差し込みにくい東向きの部屋で、外界の喧騒から切り離されたようなその空間には、静けさと集中が染み込んでいた。
木材を削った香りに混じって、わずかに火薬の匂いが漂う。火鉢の消し炭と金属の冷たい質感、道具が擦れ合う微かな音が空気を満たしている。何かを創る場所特有の緊張感が、壁の木目にまで染みこんでいるようだった。
その部屋の隅で、ひとりの少女が黙々と作業を続けていた。
名を、未奈という。
年は智子より幾分か下に見える。だが、拓巳の屋敷において、機織りの効率を支える道具類――織機、撚糸機、滑車など――それらの設計・改良を一手に担っている技師でもある。
彼女は常に無表情で、必要以上の言葉を発さない。そのせいで、屋敷内でも「気配がない」「幽霊かと思った」などと冗談めかして言われることもあった。けれど、誰よりも早く、正確に、しかも実用性に優れた道具を作り出す。
未奈がいるというだけで、仕事の能率が変わる――それが事実だった。
この日、彼女の前に並んでいたのは、竹製の糸車だった。
ただし、通常のものとは明らかに違う。軸は通常の半分以下の細さで、軽量化を極めた構造。歯車には緻密な金属細工が施されており、風を巻き込むようにスムーズな回転ができるよう調整されていた。試作にしては完成度が高く、設計図なしでここまで作り上げたことに驚嘆する者も多いだろう。
その糸車が、すでに静かに回転していたとき――戸口で軽く叩く音がした。
「すみません、お邪魔して……あの、私が使うと聞いて……」
扉をそっと開けて入ってきたのは、智子だった。声は柔らかく、やや遠慮がち。だが、その声音には礼を尽くす意志が込められていた。
未奈は顔を向けない。返事もなく、ただ手元の作業に集中したまま、糸車を回し続けていた。無言のまま、回転の微調整を繰り返している。足で踏む部分と上部の軸回転が、音もなく滑るように連動していた。
智子は一瞬戸惑い、困ったように一歩前に踏み出した。だが、ふとそのとき、目の前の糸車に違和感を覚えた。
――速い。
目で追いかけてみると、確かに回転数が通常より速い。それなのに、軸にかかる負荷が軽く、糸が上下に跳ねたり、振動したりする様子がない。さらに不思議なのは、音だ。
糸車が高速で回転しているにもかかわらず、耳に届くはずの「ヒュン」「ギュル」といった擦れ音が、ほとんど聞こえない。
「これ……この滑車の角度、変えました?」
思わず智子が声を上げた。
その言葉に、未奈は初めて手を止めた。目を伏せたまま、ただほんの少しだけ、頷いた。
「……回転、三割速く。音、小さく。火気、遠ざける」
声は小さく、単語だけを並べたような簡潔さ。だが、そこには確かに要点が詰まっていた。
早く、静かに、安全に――織りの現場で何が求められるか、未奈はすでにすべてを把握しているのだった。
智子はそっと未奈の糸車に近づき、用意されていた絹糸を一筋、手に取った。張力を確かめるように指先で滑らせ、軸に糸をかける。そして、ごく軽く引いてみる。
その瞬間、糸が音もなく回転に吸い込まれていくように滑り出した。まるで空気と一緒に糸を巻き取っているかのような、軽やかな感触。足の踏み板にも無駄な抵抗がなく、軋みひとつない。
「……すごく、軽いです」
智子は驚きを隠せなかった。こんな糸車は見たことがない。回転が早いのに、糸が痛まない。速さと繊細さの両立――その実現がどれほど困難かを、織師である彼女は誰より知っていた。
未奈は何も言わなかった。顔を上げず、ただじっと糸車を見つめていた。だが、彼女の右手の指先が、ほんの僅かに震えていた。
微細な動き。震えというには小さすぎるかもしれない。だが、確かにその手元に、喜びのようなものが伝わっていた。誰かのために作ったものが、ちゃんと“届いた”という実感――それが、未奈の無表情の奥底で、確かに何かを揺らしていた。
「ありがとう。本当に助かります」
智子が心からそう言ったとき、未奈はわずかに反応した。
しばしの沈黙ののち、彼女は小さく唇を動かした。
「……あなた、言う。“助かる”」
その声は小さく、息に紛れそうなほどだったが、たしかに感情があった。嬉しさと照れくささが混じり合い、未奈なりの“最大限の受け取り方”として、言葉に込められていた。
智子は静かに微笑んだ。未奈がこの道具にどれほど心を込めていたか、わかった気がした。言葉ではなく、機構や素材の選び方、細部の構造――そのすべてが、使う者を思って組み立てられていた。
未奈はまた、黙って糸車を回し始めた。けれどその動きは、さっきよりもほんの少しだけ柔らかかった。無言のままでも、通じるものがある。そう信じられる時間だった。
無表情で、物静かで、言葉少なな少女。
けれどその手は、誰よりも確かに、支えるために動いていた。
今日もまた、未奈の手が――誰かの未来を織る糸の、その背をそっと押していた。
木材を削った香りに混じって、わずかに火薬の匂いが漂う。火鉢の消し炭と金属の冷たい質感、道具が擦れ合う微かな音が空気を満たしている。何かを創る場所特有の緊張感が、壁の木目にまで染みこんでいるようだった。
その部屋の隅で、ひとりの少女が黙々と作業を続けていた。
名を、未奈という。
年は智子より幾分か下に見える。だが、拓巳の屋敷において、機織りの効率を支える道具類――織機、撚糸機、滑車など――それらの設計・改良を一手に担っている技師でもある。
彼女は常に無表情で、必要以上の言葉を発さない。そのせいで、屋敷内でも「気配がない」「幽霊かと思った」などと冗談めかして言われることもあった。けれど、誰よりも早く、正確に、しかも実用性に優れた道具を作り出す。
未奈がいるというだけで、仕事の能率が変わる――それが事実だった。
この日、彼女の前に並んでいたのは、竹製の糸車だった。
ただし、通常のものとは明らかに違う。軸は通常の半分以下の細さで、軽量化を極めた構造。歯車には緻密な金属細工が施されており、風を巻き込むようにスムーズな回転ができるよう調整されていた。試作にしては完成度が高く、設計図なしでここまで作り上げたことに驚嘆する者も多いだろう。
その糸車が、すでに静かに回転していたとき――戸口で軽く叩く音がした。
「すみません、お邪魔して……あの、私が使うと聞いて……」
扉をそっと開けて入ってきたのは、智子だった。声は柔らかく、やや遠慮がち。だが、その声音には礼を尽くす意志が込められていた。
未奈は顔を向けない。返事もなく、ただ手元の作業に集中したまま、糸車を回し続けていた。無言のまま、回転の微調整を繰り返している。足で踏む部分と上部の軸回転が、音もなく滑るように連動していた。
智子は一瞬戸惑い、困ったように一歩前に踏み出した。だが、ふとそのとき、目の前の糸車に違和感を覚えた。
――速い。
目で追いかけてみると、確かに回転数が通常より速い。それなのに、軸にかかる負荷が軽く、糸が上下に跳ねたり、振動したりする様子がない。さらに不思議なのは、音だ。
糸車が高速で回転しているにもかかわらず、耳に届くはずの「ヒュン」「ギュル」といった擦れ音が、ほとんど聞こえない。
「これ……この滑車の角度、変えました?」
思わず智子が声を上げた。
その言葉に、未奈は初めて手を止めた。目を伏せたまま、ただほんの少しだけ、頷いた。
「……回転、三割速く。音、小さく。火気、遠ざける」
声は小さく、単語だけを並べたような簡潔さ。だが、そこには確かに要点が詰まっていた。
早く、静かに、安全に――織りの現場で何が求められるか、未奈はすでにすべてを把握しているのだった。
智子はそっと未奈の糸車に近づき、用意されていた絹糸を一筋、手に取った。張力を確かめるように指先で滑らせ、軸に糸をかける。そして、ごく軽く引いてみる。
その瞬間、糸が音もなく回転に吸い込まれていくように滑り出した。まるで空気と一緒に糸を巻き取っているかのような、軽やかな感触。足の踏み板にも無駄な抵抗がなく、軋みひとつない。
「……すごく、軽いです」
智子は驚きを隠せなかった。こんな糸車は見たことがない。回転が早いのに、糸が痛まない。速さと繊細さの両立――その実現がどれほど困難かを、織師である彼女は誰より知っていた。
未奈は何も言わなかった。顔を上げず、ただじっと糸車を見つめていた。だが、彼女の右手の指先が、ほんの僅かに震えていた。
微細な動き。震えというには小さすぎるかもしれない。だが、確かにその手元に、喜びのようなものが伝わっていた。誰かのために作ったものが、ちゃんと“届いた”という実感――それが、未奈の無表情の奥底で、確かに何かを揺らしていた。
「ありがとう。本当に助かります」
智子が心からそう言ったとき、未奈はわずかに反応した。
しばしの沈黙ののち、彼女は小さく唇を動かした。
「……あなた、言う。“助かる”」
その声は小さく、息に紛れそうなほどだったが、たしかに感情があった。嬉しさと照れくささが混じり合い、未奈なりの“最大限の受け取り方”として、言葉に込められていた。
智子は静かに微笑んだ。未奈がこの道具にどれほど心を込めていたか、わかった気がした。言葉ではなく、機構や素材の選び方、細部の構造――そのすべてが、使う者を思って組み立てられていた。
未奈はまた、黙って糸車を回し始めた。けれどその動きは、さっきよりもほんの少しだけ柔らかかった。無言のままでも、通じるものがある。そう信じられる時間だった。
無表情で、物静かで、言葉少なな少女。
けれどその手は、誰よりも確かに、支えるために動いていた。
今日もまた、未奈の手が――誰かの未来を織る糸の、その背をそっと押していた。



