渡り鳥の列が、東の空に弧を描いていた。
波のきらめきとともに、出帆の合図となる帆が、静かに広がる。
桜洛南港――
朝もやの中、外海行きの小型帆船が、一隻だけ静かに揺れていた。
その舳先に立つのは、旅衣を纏った男――拓巳。
黒狐と恐れられ、政を翻し、そして自ら闇を抱いた者。
だが今の彼に、その影はない。
帆が風をはらみ、船が岸を離れた瞬間、
拓巳はゆっくりと目を閉じる。掌の中には、あの帯――智子から贈られた光螺鈿の帯。
「……あの女は、俺に“善”を与えようとした。だが、俺はそれを拒み、“悪”であろうとした。なのに、結局、どちらにもなれなかったな」
呟きは、波の音にかき消された。
けれど、拓巳の胸の内には確かな声として響いていた。
「善悪なんぞ、所詮は人が勝手につけた印だ。俺がやったことは――ただ、必要だった。誰かがやらねば、国は潰れていた」
風が吹き、帆を揺らす。
彼の髪がわずかに舞い、額を撫でる。
「……それでも」
言葉を切る。
その目に、ほんの僅かに宿るのは――後悔、だったのかもしれない。
「それでも、俺はあの娘を“光”だと信じた。俺の影が濃ければ濃いほど、あの娘の光は強く輝く。……だから、あえて闇を選んだんだ。そんな自分勝手な理屈でしか、信じてやれなかった」
船が外港を越え、水平線を目指して進み出す。
岸は小さくなり、丘の上の風車も、もう見えない。
拓巳は、帯を胸に抱えた。
「……俺は“悪役”で構わぬ。だが、“悪役”のままでも、何かを救えたのなら。光を織る者のそばに、一瞬でも立てたのなら……それでいい」
目を閉じ、拓巳は深く息を吐いた。
かつての彼にはなかった穏やかさが、表情に滲んでいた。
この旅は逃避ではない。
これは、“闇”という役を演じ終えた男が、“名もなき男”として歩き出す第一歩だった。
波間に、金糸のきらめきが一閃、消えた。
それは――帯の桜が、朝日に反射した一瞬の輝きだった。
波のきらめきとともに、出帆の合図となる帆が、静かに広がる。
桜洛南港――
朝もやの中、外海行きの小型帆船が、一隻だけ静かに揺れていた。
その舳先に立つのは、旅衣を纏った男――拓巳。
黒狐と恐れられ、政を翻し、そして自ら闇を抱いた者。
だが今の彼に、その影はない。
帆が風をはらみ、船が岸を離れた瞬間、
拓巳はゆっくりと目を閉じる。掌の中には、あの帯――智子から贈られた光螺鈿の帯。
「……あの女は、俺に“善”を与えようとした。だが、俺はそれを拒み、“悪”であろうとした。なのに、結局、どちらにもなれなかったな」
呟きは、波の音にかき消された。
けれど、拓巳の胸の内には確かな声として響いていた。
「善悪なんぞ、所詮は人が勝手につけた印だ。俺がやったことは――ただ、必要だった。誰かがやらねば、国は潰れていた」
風が吹き、帆を揺らす。
彼の髪がわずかに舞い、額を撫でる。
「……それでも」
言葉を切る。
その目に、ほんの僅かに宿るのは――後悔、だったのかもしれない。
「それでも、俺はあの娘を“光”だと信じた。俺の影が濃ければ濃いほど、あの娘の光は強く輝く。……だから、あえて闇を選んだんだ。そんな自分勝手な理屈でしか、信じてやれなかった」
船が外港を越え、水平線を目指して進み出す。
岸は小さくなり、丘の上の風車も、もう見えない。
拓巳は、帯を胸に抱えた。
「……俺は“悪役”で構わぬ。だが、“悪役”のままでも、何かを救えたのなら。光を織る者のそばに、一瞬でも立てたのなら……それでいい」
目を閉じ、拓巳は深く息を吐いた。
かつての彼にはなかった穏やかさが、表情に滲んでいた。
この旅は逃避ではない。
これは、“闇”という役を演じ終えた男が、“名もなき男”として歩き出す第一歩だった。
波間に、金糸のきらめきが一閃、消えた。
それは――帯の桜が、朝日に反射した一瞬の輝きだった。



