春一番が、丘の風車を揺らしていた。
 桜洛西丘――遠く市街の屋根が霞む高台。ここは、誰にも邪魔されない場所。
 それを選んだのは、拓巳だった。
 彼は、かつての黒衣ではなく、地味な旅装のまま、腰掛けて風を受けている。
 その隣に立つのは、光螺鈿の帯を締めた智子だった。
「……本当に、行くのですか?」
 風の音に紛れて、智子の声が小さく揺れた。
 拓巳は目を閉じ、静かに頷いた。
「俺の名は、今や“摂政を討った黒狐”だ。ここに残れば、新たな怨嗟を呼ぶ。善政の足を引っ張るだけだ」
「それでも……」
 智子は膝の上で手を組み、言葉を探していた。
 言いたいことは山ほどある。けれど、彼の決意はわかる。
「……それでも、私は、あなたがいてほしい。あなたの闇が、私の光に、形を与えてくれたから」
 拓巳はふと笑った。かつての冷ややかな皮肉ではなく、素の笑み。
「お前は俺に似ていない。だからこそ、俺を変えた。闇のままに終わらず、光に照らされた悪役として」
 彼は懐から、丸めた書状を取り出した。
 それは、官位辞退願だった。
「……これを持って、北の商都へ行くつもりだ。しばらくは名を捨て、旅人として……“織らぬ者”として生きてみたい」
 智子はゆっくりと帯の端に手を添えた。
 それは、彼に贈るつもりの帯――
 夜の闇に咲く桜と、金糸で描いた狐の紋。光と闇の交わる一点に、織られた物語のすべてが込められていた。
「この帯を、差し上げます」
「……受け取れぬ。これは、城の者にこそ相応しい」
「だから、あなたに」
 智子の声は、いつも通り穏やかだったが、その目は決して逸らさなかった。
「あなたの選んだ旅が、誰かを照らすものになると信じてます。……闇を抱えたままでも、誰かの希望になれるって」
 拓巳は、ゆっくりとその帯を手に取った。
 桜の文様が、朝日に照らされ、仄かに金色に煌めいた。
「……ありがとう。俺は、悪役のままで咲いてみるよ。いつかまた、風の吹く丘で――」
 そう言い残して、彼は踵を返し、春風の中へと歩き出す。
 智子はその背を見送る。
 涙はこぼれなかった。風がその代わりに、頬を優しく撫でた。
 光と闇は交わった。そして、ふたたび別れた。
 だがその交点は、永遠にこの帯に刻まれた。