空が、墨のような夜から、仄かに藍へと染まりつつあった。
 桜洛の町にはまだ静寂が残り、戦の名残があちこちに散らばっていた。
 天守の裏広場――そこに一枚の大布が掲げられる。
 それは銀糸を織り込んだ反物――智子が未奈と共に仕上げた“光纏絹”と同じ技術で織られた、巨大な織幕だった。
 布には、こう織り込まれていた。
『民は花なり。
 闇に咲き、光をもって実を結ぶ。
 今ここに、希望の政を。』
 筆ではない。織り糸で紡がれた文字――まさに、布で書かれた宣言。
 その場に居合わせた民たちは、朝霧の中、静かにその言葉を見上げていた。
 布の前に立つのは、薄紅の織衣を身にまとった智子だった。
 風が髪を揺らす。
 彼女の足元は、昨夜の戦いで崩れかけた石畳。
 けれど、その背筋は真っすぐだった。
「皆さま……おはようございます」
 その声は、最初、少しかすれていた。
 だが、すぐに息を整え、智子は布の言葉をなぞるように語りはじめた。
「……この桜洛は、今まで多くのものを“隠して”きました。
 嘘、汚職、差別――私もまた、見て見ぬふりをしてきました。ですが、もう、目を背けることはしません」
 彼女の目が、民衆の一人ひとりを見渡す。
 怯えた目をしていた老婆。
 子を抱きながら立ちすくむ女。
 服を煤で汚した若者。
 誰一人として、同じ境遇ではなかった。
 けれど、智子は誰にも等しく向けた。
「私は、機を織る者です。
 そして、これからは未来を織る者として……この地に、新たな始まりを誓います」
 誰かが息を呑んだ。
「この織幕は、言葉を“語る”のではなく、“残す”ために作りました。
 皆さまの声を、手を、支えを、この布のように、絡み合わせて……新しい桜洛を紡いでいくのです」
 その言葉には誇張も飾りもなかった。
 ただ一つ、心からの“誠実”があった。
 やがて、ざわりと人々の間に波紋が広がり、
 その中心で一人の老婆が声を上げた。
「……智子さま、ありがてぇ。こんな布、見たことねぇ」
「うちの子にも、教えてやりてぇ!」
「手伝えることがあれば、わしらも!」
 拍手が起こった。
 小さな音だった。
 けれど、それは確かに広がっていった。
 やがてそれは、町全体を包む拍手の渦となり、
 智子の背後の布を、まるで朝日が照らすように輝かせた。
(拓巳様……私は、信じております)
 胸の中で、そっと言葉を紡いだ智子は、ひとつだけ深く、頭を下げた。
 ――夜が明けた。
 そして、桜洛に新たな光が差し込んだ。