天守を包む冬空は、今にも雪を落としそうな灰色の曇天だった。
 その中に立つ拓巳の姿は、まるで長い影そのもののようだった。
「摂政殿。――時刻です」
 天守最上階。扉の向こう、黒漆の間に響く声。
 そして、畳の上で座していた老爺――摂政家老・宰仁がゆるりと立ち上がる。
「貴様……黒狐などと畏れられて、己を何様と思うか」
「"何様"など興味はない。ただ、“この国を誰が保つべきか”だ」
 拓巳はまっすぐ、忖度なく応じた。
 その手には抜かれた一振りの脇差。
 刃にはまだ血はついていない。だが、遅かれ早かれ、濡れることは避けられないだろう。
「……ならば教えてやる。この国とは、我ら旧家の血によって成り立つものだ」
「時代がその“血”を腐らせたなら、清めねばなるまい」
 拓巳の言葉に、宰仁は静かに嗤った。
「ふん、やはり貴様は“悪役”よな。己が正義と信じるもののため、他者を踏みにじる」
「それを言うなら――貴様もだろう」
 声が交差するや否や、二人の間の空気が裂けた。
 宰仁が懐から投げ放った小太刀の刃を、拓巳が紙一重でかわす。
 そのまま床を蹴って突き進み、低く斬り払った。
 宰仁は老いの身ながら俊敏に躱し、隠し持っていた槍を掴む。
 それは細身ながらも業物、城の守護に用いられる“呪金槍”。
「若造が、我らの“家”の重みを知るかッ!」
「“家”ではなく、“因習”と呼べ――!」
 雷鳴のような金属音が大広間に響く。
 槍と脇差が交差し、斬るは理、突くは権威。
 だが、拓巳は一歩も引かぬ。
 その姿には、闇を背負いながらもなお、凛とした光が差していた。
(俺が……この“悪”を成す)
 その決意に迷いはない。
「黒狐め……貴様のような化け物に、この国が委ねられてたまるか……!」
 宰仁が吼える。
 しかし、吼え声は、誰の耳にも届かなかった。
 次の瞬間、拓巳の刃が槍の柄を斬り裂き、宰仁の胴を浅く断つ。
 鮮血が迸る。
 だが、拓巳の目に怒りも歓喜もない。
 ただ、己の選んだ闇の道を――成すべきを果たした静寂があるのみ。
「――闇に咲く花こそ、真に強し」
 そう言い放ち、拓巳は天守を背にした。
 その背には血の跡もある。
 しかしその影には、智子と過ごした日々で得た、確かな光の芯が宿っていた。
 遠く、桜洛の鼓楼が打ち鳴らされた。
 政変の刻は、確かに動いたのだ。