その日、桜洛の南端――城下でもとりわけ人通りの少ない茶屋町の一角に、ひっそりと建つ水茶屋「山吹庵」の裏口から、ひとりの男が静かに姿を現した。

 昼下がりの風が、簾をかすかに揺らす。通りに響くのは、遠くから聞こえる商人たちの声と、水車の回る音だけ。そんな中を、黒ずくめの男が何の気配もなくすり抜けていく。

 男の名は――光輝。

 無口で、ほとんど表情を変えることがない。まるで感情という概念そのものが、彼の中に存在しないかのようだった。

 だが、彼の名前を聞いてひるむ者は少なくない。桜洛の衛兵の中には、彼の姿を見ただけで警戒心を強める者もいる。なぜなら光輝の剣は、ただ速いだけではなかった。躊躇なく、無駄なく、“終わらせる”ための剣だったからだ。

 相手の命も、任務の余波も、すべてを冷たく削ぎ落とす剣――それを振るう者に、誰が安易に近づけようか。

 「任務だ。中庭の茶会に紛れて渡される図面、それを奪取しろ」

 光輝が屋敷を出る直前、主である拓巳が投げかけた言葉は、それだけだった。淡々とした口調。任務の背景も理由もない。声に、顔に、情のようなものは一切浮かんでいなかった。

 だが光輝は、それで十分だった。説明も、確認も、必要ない。彼はただ、ほんのわずかに頷くと、その場から気配ごとすっと消えた。

 まるで、命じられるよりも前から、すでに任務を背負っていたかのように。

 ――

 その日の午後、武家屋敷の中庭では、静かに茶会が催されていた。亭主が丁寧に茶を点て、客人たちは静かに和歌を詠じ、干菓子を口に運ぶ。時折、軒先を風が撫で、竹林の葉がそよぐ音がする。

 だが、その穏やかさの裏では、別の意味を帯びた時が流れていた。

 この茶会の裏で、非公式に都市改修の図面がやりとりされる――それは、拓巳が持つ密偵網に届いた情報だった。しかも、その図面は摂政家の外堀計画に関わる、極秘の書き換え案だったという。

 光輝は、あらかじめ庭師に扮し、庭木の手入れをするふりをして待機していた。茶人たちの視線を避けるように、木々の間を淡々と動き、鋏を握るその指先にすら、一切の無駄がなかった。

 彼の顔には焦りも不安もない。喜怒哀楽のいずれもが消し去られ、ただ瞳だけが静かに状況を追っていた。瞼の奥に宿るのは、動くべき“機”を探る光だけだった。

 やがて、一人の小柄な武士が、懐から何かを取り出した。動きは自然で、茶会の流れを崩すこともなかった。だが、光輝の目はその一瞬を見逃さない。

 巻物――それが、亭主へと手渡された刹那。

 光輝の体が、音もなくすっと動いた。

 数秒後。

 茶室の裏戸が、わずかに、まるで風が通り抜けたかのように揺れた。

 気づいた者は誰もいなかった。だがその瞬間、中庭の隅で吊られていた掛け軸が、不意に倒れた。軸が柱に当たり、乾いた音を立てて床に転がる。

 亭主と客人たちの視線が、一斉にそちらへ向けられる。わずか数秒の混乱。誰も異常とは思わず、「風のいたずらか」と軽く流すその刹那――

 巻物は、すでに跡形もなく消えていた。

 それはまるで、最初から何もそこにはなかったかのように。痕跡も残さず、香りひとつ、風圧ひとつ、誰にも悟らせることなく、目的の品は奪取されていた。

 ――

 数刻後。拓巳の屋敷の一室。

 薄暗い書斎の中で、燭台の炎が静かに揺れていた。障子の向こうで風が鳴り、遠くで鳥の声がかすかに聞こえる。だがこの部屋の中には、呼吸すら感じられなかった。

 そこに、光輝が姿を現した。衣に乱れはない。剣に血の匂いもなく、足音すらも立てず、静かに一歩を踏み入れる。

 そして何も言わず、巻物を取り出し、机の上に差し出した。

 「確かに預かった」

 拓巳が呟く。だが、その目は巻物には向けなかった。受け取った巻物を机に置くと、顔も向けぬまま、静かに言葉を投げた。

 「表情はいらぬ、結果をくれ。それでいい」

 その声には、満足も賞賛もない。ただ、当然の帰結として言葉が落ちた。

 光輝は、何も言わなかった。ただ、軽く頭を下げると、背を向けて歩き出す。

 その背中に、気負いも達成感もない。ただ一つの動作をこなした人形のような、完璧な無機質。だがその歩みのなかに、確かに彼の“意志”があることを、わずかな者だけが察することができた。

 そのとき――

 廊下の向こうから、細い足音が近づいてくる。すれ違いざま、智子の姿が現れた。

 彼女はふと足を止める。まるで、すれ違う気配に何かを感じ取ったかのように。

 「あの……お疲れさまです」

 おずおずと、それだけを声にした。

 光輝は足を止めたが、やはり何も言わない。無言のまま、顔を動かさず、ただほんのわずかに頷くだけ。

 それだけだった。言葉も、目線も交わさない。けれど智子は、その沈黙の中に、不思議と安心感を覚えていた。

 目に見えない熱が、ほんの少しだけ――たとえば刃を鞘に納める瞬間の静けさのように――彼の中にあるような気がした。

 まるで、氷のような無表情の奥に、誰にも言えぬ熱を秘めているかのように。