黎明の空に、ひと筋の朱がにじみ始めた。
 まだ朝とも夜ともつかぬ刻、桜洛の天守大広間には、琴の音が響いていた。
 それは静謐で、深く、流れる水のようだった。
「……この音が、嵐の前の橋渡しとなればよいがな」
 独り言のようにそう呟いたのは、老僧・響。
 痩せた指先が、古びた古琴の弦を撫でていた。
 かすかに軋む音すら、旋律の一部のように耳に馴染んでいく。
 この大広間は、数刻後に戦火のただ中となる場所だ。
 そのための準備も、隠密も、策謀もすでに終わっていた。
 残るは――人の心だけ。
(だから、わしの出番じゃ)
 響は思う。
 百の兵を動かす力がなくとも、一曲の旋律が心の軸を定めることもある。
 それを知っているからこそ、彼はただ弾き続けていた。
 ほどなくして、扉が静かに開いた。
 中へ入ってきたのは、智子と拓巳だった。
「……響様」
 智子が小さく礼をすると、響は弦を撫でる指を止め、目を閉じたまま言った。
「挑むのは、刀ではなく心である。
 刀を振るのは一瞬、心を定めるには一生かかる。……どちらが難しいと思うかね?」
 智子は黙して答えなかった。
 拓巳もまた無言だったが、その目に宿る影が、幾分か薄まっていた。
 響は再び指を動かす。
 今回は少し速い調べ――けれども不安を煽るものではない。
 むしろ、呼吸を整え、身体を起こし、心を鎮めるための旋律。
「光を背負う者は、光に目を焼かれる。
 闇を抱く者は、闇に喰われる。
 ならば、おぬしらは――どうする?」
 問う声は柔らかく、しかし深く響いた。
 智子は、少しだけ前に出た。目を閉じ、静かに言葉を紡ぐ。
「わたしは……光を織ります。闇の中で、誰かがそれを見つけられるように」
 拓巳はその隣に立ち、低く続けた。
「ならば俺は、闇を盾としよう。おまえの織る光が、誰かの道を照らすまで」
 響は、ふっと鼻で笑った。
 それは満足の笑みだった。
「……ようやく、おぬしらの旋律が揃うたな。よかろう。ならば、最後の一音をくれてやろう」
 響は再び指を置いた。
 最後の旋律は、夜と朝の間――
 沈黙の海に一石を投じるような、揺らぎのない“和”だった。
 そして、音は消えた。
 誰も言葉を発さなかった。
 けれど、それで十分だった。
 ――彼らの戦いは、すでに始まっていた。