天守茶室の裏手に、火薬を隠した小屋がある。
表向きは香木や墨を保管する倉として見せかけていたが、
内部には密かに設えられた火薬庫があった。
摂政家が、最後の切り札として備えた“非常手段”――
それが、城ごと全てを吹き飛ばす凶器だった。
その夜、火薬庫へと向かう小柄な影があった。
美鈴だった。
松明も持たず、忍び足で、呼吸すら殺して進む。
手には、小さな瓢箪。その中には“砂塩”。
粉末に加工されたそれは、火薬に混ざることで爆発力を殺ぐ。
だが分量と混ぜる順序を誤れば、逆に爆発の引き金にもなりかねない――
「……計算通り、であってほしいわね」
美鈴は扉の錠をそっと針で開け、ひと息ついて中へ。
灯りも音も立てぬまま、整然と並ぶ火薬樽の間を歩く。
一本一本、蓋を開けて砂塩を混入していく。
彼女の表情には何の感情もない。ただ、沈黙と正確さだけがあった。
(誰かに気づかれても、私は…平然としていればいい)
それが、美鈴の処世術だった。
感情を出せば疑われる。押し殺せば、誰も近寄らない。
音――外で何かが爆ぜた。
おそらく、薫たちの火薬提灯が破裂したのだろう。
陽動開始の合図だ。
「時間がない……」
最後の樽を開けた時、美鈴はふと、指を止めた。
樽の底に、ひときわ異なる火薬が混じっている。
粒が細かく、異様に艶がある。
(これは……銀朱? まさか、火炎増強剤……)
彼女の頭脳が即座に計算を始めた。
もしこの火薬が使われれば、周囲五十間に及ぶ火災が発生する。
天守は瓦礫と化し、智子も拓巳も……いや、桜洛すら焼け落ちる。
「バカじゃないの……」
その口調には呆れがあった。けれど怒りも悲しみもなかった。
ただ――感情という火花を押し殺す術に、慣れすぎていただけ。
彼女は持参した砂塩の倍量をすくい取り、底へ丁寧に落とした。
慎重に層をつくり、蓋を閉じ、呼吸を整える。
一歩退いて、全体を見渡す。
火薬樽のひとつひとつが、まるで並んだ運命の羅列のようだった。
(終わった。……これで、爆発は防げる)
そう思った瞬間、背後で音がした。
誰かが、入り口に立っている。
「誰だ」
低く、鋭い声。見張りの兵士か、あるいは密偵か。
美鈴は背筋を伸ばし、冷ややかに振り向いた。
「奉行所命令により、火薬庫の点検です」
嘘ではない。――事実の一部だ。
相手は一瞬迷い、やがて納得したようにうなずき、背を向けた。
(感情を、見せなければ、通れる)
美鈴は静かに外へ出た。
顔には何の色もなかった。だが、足取りは確かだった。
火薬庫の中――その沈黙こそが、
彼女の静かな勝利を証していた。
表向きは香木や墨を保管する倉として見せかけていたが、
内部には密かに設えられた火薬庫があった。
摂政家が、最後の切り札として備えた“非常手段”――
それが、城ごと全てを吹き飛ばす凶器だった。
その夜、火薬庫へと向かう小柄な影があった。
美鈴だった。
松明も持たず、忍び足で、呼吸すら殺して進む。
手には、小さな瓢箪。その中には“砂塩”。
粉末に加工されたそれは、火薬に混ざることで爆発力を殺ぐ。
だが分量と混ぜる順序を誤れば、逆に爆発の引き金にもなりかねない――
「……計算通り、であってほしいわね」
美鈴は扉の錠をそっと針で開け、ひと息ついて中へ。
灯りも音も立てぬまま、整然と並ぶ火薬樽の間を歩く。
一本一本、蓋を開けて砂塩を混入していく。
彼女の表情には何の感情もない。ただ、沈黙と正確さだけがあった。
(誰かに気づかれても、私は…平然としていればいい)
それが、美鈴の処世術だった。
感情を出せば疑われる。押し殺せば、誰も近寄らない。
音――外で何かが爆ぜた。
おそらく、薫たちの火薬提灯が破裂したのだろう。
陽動開始の合図だ。
「時間がない……」
最後の樽を開けた時、美鈴はふと、指を止めた。
樽の底に、ひときわ異なる火薬が混じっている。
粒が細かく、異様に艶がある。
(これは……銀朱? まさか、火炎増強剤……)
彼女の頭脳が即座に計算を始めた。
もしこの火薬が使われれば、周囲五十間に及ぶ火災が発生する。
天守は瓦礫と化し、智子も拓巳も……いや、桜洛すら焼け落ちる。
「バカじゃないの……」
その口調には呆れがあった。けれど怒りも悲しみもなかった。
ただ――感情という火花を押し殺す術に、慣れすぎていただけ。
彼女は持参した砂塩の倍量をすくい取り、底へ丁寧に落とした。
慎重に層をつくり、蓋を閉じ、呼吸を整える。
一歩退いて、全体を見渡す。
火薬樽のひとつひとつが、まるで並んだ運命の羅列のようだった。
(終わった。……これで、爆発は防げる)
そう思った瞬間、背後で音がした。
誰かが、入り口に立っている。
「誰だ」
低く、鋭い声。見張りの兵士か、あるいは密偵か。
美鈴は背筋を伸ばし、冷ややかに振り向いた。
「奉行所命令により、火薬庫の点検です」
嘘ではない。――事実の一部だ。
相手は一瞬迷い、やがて納得したようにうなずき、背を向けた。
(感情を、見せなければ、通れる)
美鈴は静かに外へ出た。
顔には何の色もなかった。だが、足取りは確かだった。
火薬庫の中――その沈黙こそが、
彼女の静かな勝利を証していた。



