城の裏山、まだ朝靄が残る峠道。
 空から静かに降り始めた初雪が、梢を白く染めはじめていた。
「……雪、ですね」
 智子は、手のひらに落ちたひとひらをじっと見つめていた。
 その隣に立つ男、拓巳は黒い外套をまとい、口を閉ざしていた。
 この丘は、二人が初めて出会った布問屋の路地裏からは遠く離れていたが――
 それでも、空の色は同じだった。いや、あの頃より澄んでいる。
「明日、決行する」
 拓巳の声は、雪の冷たさを写したかのように冷静だった。
 智子はゆっくりと頷いた。
 しかし、すぐに声が震える。
「やっぱり……もう、戻れないんですね」
「戻る道など、初めから踏んでいない。最初に踏んだ足跡が、すでに他人を騙す偽りの一歩だった。私は“悪役”として、最期まで成し遂げる」
 その言葉に、智子は胸の奥がざらつくのを感じた。
 それでも彼の視線を正面から受け止める。
「私……怖いです。あなたが、“光”の方を見てくれなくなるのが」
 拓巳は、長く吐息をついた。
 そして、智子の前に立ち、低く告げた。
「ならば問おう。お前は“善”であり続ける覚悟があるのか。私がどれだけ闇を纏おうと、それでも手を離さず進めるのか?」
 智子は、きゅっと拳を握りしめる。
 白い息が震えながら空へ昇った。
「私は……“光”なんて大それたものじゃない。人を救う力も、大義を掲げる度胸もない。だけど、自分の行動に、誠実でありたい。例え誰に笑われても、あなたに、嘘をつきたくない」
 その声は、小さくも確かな響きを持っていた。
 拓巳は一歩だけ近づいた。そして、智子の頬に雪がついているのを無言で払う。
「……それでいい。光よ、私を照らすな。だが、共に歩け」
「はい」
 そうして、二人はしばし無言のまま、雪が降る山の道を並んで歩いた。
 その歩幅は、かつてと違い、等しかった。