その日の午後、智子は屋敷の織間の隅で、黙々と糸を整えていた。日差しは天窓から斜めに射し込み、畳に細長い影を落としている。機織り場に満ちる静けさの中で、わずかに聞こえるのは、糸が手から滑るときの微かな音だけだった。
彼女の手は止まらない。指先が、糸の表面を確かめるように何度もなぞる。選別した糸束を一本ずつ解きほぐし、撚りを整え、まとめ直しては、布へと命を吹き込む準備を進める。その作業は、まるで糸と対話しているようにも見えた。
頭の片隅では、今朝の薫の声がまだ残響のようにこびりついていた。
――役立たずなら切り捨てる。
きっぱりと、容赦なく突き刺さったその言葉。だが、不思議と怖くはなかった。智子の心にはむしろ、叱責の奥に燃えるような熱を感じていた。否定の裏に、期待とも呼べる何かが、確かに存在していたように思えた。
――あの人は、見ていた。私の織りを。
それだけで、胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。怯えではなく、挑まれているという実感。自分を試す者がいるということが、恐怖よりも先に、静かな闘志を生んでいた。
ふと、廊下の向こうで足音が止まった。柔らかな気配が、襖の向こうに立つ。障子の格子越しに人影が揺れた。
「失礼します」
その声は穏やかで、低く、どこか馴染みの良い調べを帯びていた。戸がすっと開くと、入ってきたのは紺の羽織をまとった男だった。年の頃は三十を少し越えたあたりか。姿勢は崩さず、落ち着いた気配を纏っている。所作ひとつにも無駄がなく、育ちの良さを感じさせた。
だがその目――薄く微笑をたたえているが、奥には冷静な観察の光が宿っていた。誰かと対するときに決して力を抜かない者の眼差し。智子は思わず、背筋を伸ばして身構えた。
「真之介と申します。商いの方からまいりました。よろしければ、少し拝見を」
彼はそう名乗りながらも、どこか気取らぬ雰囲気を纏っていた。礼儀は丁寧だが、それを押しつけることはない。智子は短くうなずき、机の上に整えていた糸束をそっと差し出した。
真之介は腰をかがめて膝をつき、まるで古筆や硯でも見るような所作で糸を手に取った。指先でそっとつまみ、光にかざし、そして静かに耳元に寄せる。その動作には、確かな経験と敬意が込められていた。
「……なるほど。確かに、撚りが静かだ。軋まず、主張せず、それでいて反響するような艶がありますね」
彼は糸に語りかけるように、ゆっくりとそう言った。その言葉の選び方にも、軽さはなかった。
智子は少しだけ驚いていた。自分の糸に、こんなにも丁寧に向き合ってくれる人がいるとは思わなかった。機の前で、誰かが黙って見てくれることはあっても、言葉でその性質を正しく伝えてくれる人には、今まで会ったことがなかった。
「これを、どれくらいで仕立てることができますか?」
その問いかけもまた、無理を強いるものではなかった。可能な範囲での誠実な対話を、当然のように求める声音だった。
「……二日、あれば」
智子は少し考えた末に答えた。無理ではないが、手を抜ける作業でもない。ぎりぎりの見積もりだった。
「充分です」
真之介は、ほっとしたように微笑み、懐から小さな反物見本を差し出した。
「これを、茶会の御召用に再現したいと、ある屋敷筋が希望しています。正式な依頼になるかはわかりませんが、まずは試作をお願いしたく」
小さく折り畳まれた反物の切れ端。それは、繊細な浅葱色に白い波文が走る雅な意匠だった。布の手触りも軽やかで、上質な絹のなかでも特に高価な部類に入る。
智子は、一瞬、返事を詰まらせた。自分のような者に、こんな依頼が舞い込むとは――この屋敷に来て、まだ数刻しか経っていないのに。
「……え、でも」
思わず声が漏れる。その戸惑いを遮るように、真之介がやわらかく言った。
「ご安心ください。薫様から“あの娘に任せていい”と伺っています」
その言葉に、智子の目が見開かれた。
薫が――あの、怒鳴ってばかりいた薫が、自分を“任せていい”と言った?
まるで冗談のように聞こえた。だが、真之介の表情には誇張も飾りもなかった。ごく自然に、ただ事実を伝えているだけだった。
「あの方は厳しいですが、目は確かです。だからこそ、私たちは信頼して動けるんです」
真之介の言葉には、職人の腕を信じ、活かす側の覚悟がにじんでいた。彼自身が、薫という人物をただの管理者ではなく、現場を見抜く目として認めているのだと、智子にも伝わってくる。
「私はあまり口を出しません。ただ、腕のある者には、舞台が必要ですから」
その一言は、軽やかなようでいて深かった。無理を強いず、威圧もせず、ただ淡々と、自分の役割を述べる。だがその裏には、“舞台を用意すること”の重さを引き受けている人間の、揺るがぬ信念が見える。
真之介は立ち上がり、手を膝に当てて軽く一礼した。礼儀に過ぎるところはないが、丁寧すぎてもいない。誠実な挨拶だった。
「無理をせず、あなたのやり方で仕立ててください。私の仕事は、“あなたが織ったものを、正当に評価する場へ届けること”です」
その言葉は、鉄のような強さで心に打ち込まれたわけではない。むしろ、ふわりと布のように優しく落ちて、しかし芯にはしっかりと重みがあった。
評価してくれる。届けてくれる。
それは、これまで智子が一度も得られなかった種類の言葉だった。どれほど真面目に織っても、どれだけ心を込めても、価値を測られることなく切り捨てられるのが当たり前だった。けれど今、その真逆を告げられている。
智子は、微かに口元を引き締めた。胸の内で、何かがじわりと芽吹いていくのを感じる。畳の感触が確かに足の裏にあることが、妙に実感として迫ってくる。
「……はい。仕立ててみせます」
その返事は、かすかな震えと共に、だがはっきりとした意志を宿していた。
真之介は満足そうに頷き、最後まで一礼してから、静かに襖を閉めて去っていった。
その後ろ姿が見えなくなってからも、智子はしばらく、動かなかった。何かを見送ったような気がした。いや、それだけではない。自分の中に、何かが入ってきたようでもあった。
それは、温かさだった。
誰かに役立てるなら。自分の織ったものが、誰かの目に届くのなら――それは、これまでの“ただ生き延びるため”だけの織りとは、まったく違う意味を持つ。
ようやく、自分の織った糸が、“未来”という名の反物になり始めた。
糸を撚る指先に、ほんの少しだけ力が宿った。
彼女の手は止まらない。指先が、糸の表面を確かめるように何度もなぞる。選別した糸束を一本ずつ解きほぐし、撚りを整え、まとめ直しては、布へと命を吹き込む準備を進める。その作業は、まるで糸と対話しているようにも見えた。
頭の片隅では、今朝の薫の声がまだ残響のようにこびりついていた。
――役立たずなら切り捨てる。
きっぱりと、容赦なく突き刺さったその言葉。だが、不思議と怖くはなかった。智子の心にはむしろ、叱責の奥に燃えるような熱を感じていた。否定の裏に、期待とも呼べる何かが、確かに存在していたように思えた。
――あの人は、見ていた。私の織りを。
それだけで、胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。怯えではなく、挑まれているという実感。自分を試す者がいるということが、恐怖よりも先に、静かな闘志を生んでいた。
ふと、廊下の向こうで足音が止まった。柔らかな気配が、襖の向こうに立つ。障子の格子越しに人影が揺れた。
「失礼します」
その声は穏やかで、低く、どこか馴染みの良い調べを帯びていた。戸がすっと開くと、入ってきたのは紺の羽織をまとった男だった。年の頃は三十を少し越えたあたりか。姿勢は崩さず、落ち着いた気配を纏っている。所作ひとつにも無駄がなく、育ちの良さを感じさせた。
だがその目――薄く微笑をたたえているが、奥には冷静な観察の光が宿っていた。誰かと対するときに決して力を抜かない者の眼差し。智子は思わず、背筋を伸ばして身構えた。
「真之介と申します。商いの方からまいりました。よろしければ、少し拝見を」
彼はそう名乗りながらも、どこか気取らぬ雰囲気を纏っていた。礼儀は丁寧だが、それを押しつけることはない。智子は短くうなずき、机の上に整えていた糸束をそっと差し出した。
真之介は腰をかがめて膝をつき、まるで古筆や硯でも見るような所作で糸を手に取った。指先でそっとつまみ、光にかざし、そして静かに耳元に寄せる。その動作には、確かな経験と敬意が込められていた。
「……なるほど。確かに、撚りが静かだ。軋まず、主張せず、それでいて反響するような艶がありますね」
彼は糸に語りかけるように、ゆっくりとそう言った。その言葉の選び方にも、軽さはなかった。
智子は少しだけ驚いていた。自分の糸に、こんなにも丁寧に向き合ってくれる人がいるとは思わなかった。機の前で、誰かが黙って見てくれることはあっても、言葉でその性質を正しく伝えてくれる人には、今まで会ったことがなかった。
「これを、どれくらいで仕立てることができますか?」
その問いかけもまた、無理を強いるものではなかった。可能な範囲での誠実な対話を、当然のように求める声音だった。
「……二日、あれば」
智子は少し考えた末に答えた。無理ではないが、手を抜ける作業でもない。ぎりぎりの見積もりだった。
「充分です」
真之介は、ほっとしたように微笑み、懐から小さな反物見本を差し出した。
「これを、茶会の御召用に再現したいと、ある屋敷筋が希望しています。正式な依頼になるかはわかりませんが、まずは試作をお願いしたく」
小さく折り畳まれた反物の切れ端。それは、繊細な浅葱色に白い波文が走る雅な意匠だった。布の手触りも軽やかで、上質な絹のなかでも特に高価な部類に入る。
智子は、一瞬、返事を詰まらせた。自分のような者に、こんな依頼が舞い込むとは――この屋敷に来て、まだ数刻しか経っていないのに。
「……え、でも」
思わず声が漏れる。その戸惑いを遮るように、真之介がやわらかく言った。
「ご安心ください。薫様から“あの娘に任せていい”と伺っています」
その言葉に、智子の目が見開かれた。
薫が――あの、怒鳴ってばかりいた薫が、自分を“任せていい”と言った?
まるで冗談のように聞こえた。だが、真之介の表情には誇張も飾りもなかった。ごく自然に、ただ事実を伝えているだけだった。
「あの方は厳しいですが、目は確かです。だからこそ、私たちは信頼して動けるんです」
真之介の言葉には、職人の腕を信じ、活かす側の覚悟がにじんでいた。彼自身が、薫という人物をただの管理者ではなく、現場を見抜く目として認めているのだと、智子にも伝わってくる。
「私はあまり口を出しません。ただ、腕のある者には、舞台が必要ですから」
その一言は、軽やかなようでいて深かった。無理を強いず、威圧もせず、ただ淡々と、自分の役割を述べる。だがその裏には、“舞台を用意すること”の重さを引き受けている人間の、揺るがぬ信念が見える。
真之介は立ち上がり、手を膝に当てて軽く一礼した。礼儀に過ぎるところはないが、丁寧すぎてもいない。誠実な挨拶だった。
「無理をせず、あなたのやり方で仕立ててください。私の仕事は、“あなたが織ったものを、正当に評価する場へ届けること”です」
その言葉は、鉄のような強さで心に打ち込まれたわけではない。むしろ、ふわりと布のように優しく落ちて、しかし芯にはしっかりと重みがあった。
評価してくれる。届けてくれる。
それは、これまで智子が一度も得られなかった種類の言葉だった。どれほど真面目に織っても、どれだけ心を込めても、価値を測られることなく切り捨てられるのが当たり前だった。けれど今、その真逆を告げられている。
智子は、微かに口元を引き締めた。胸の内で、何かがじわりと芽吹いていくのを感じる。畳の感触が確かに足の裏にあることが、妙に実感として迫ってくる。
「……はい。仕立ててみせます」
その返事は、かすかな震えと共に、だがはっきりとした意志を宿していた。
真之介は満足そうに頷き、最後まで一礼してから、静かに襖を閉めて去っていった。
その後ろ姿が見えなくなってからも、智子はしばらく、動かなかった。何かを見送ったような気がした。いや、それだけではない。自分の中に、何かが入ってきたようでもあった。
それは、温かさだった。
誰かに役立てるなら。自分の織ったものが、誰かの目に届くのなら――それは、これまでの“ただ生き延びるため”だけの織りとは、まったく違う意味を持つ。
ようやく、自分の織った糸が、“未来”という名の反物になり始めた。
糸を撚る指先に、ほんの少しだけ力が宿った。



