秋祭りの賑わいが最高潮に達する宵の刻、桜洛の奉行所裏手では、誰にも知られぬ静寂が息づいていた。
紅提灯の明かりが遠ざかるにつれ、路地裏は闇の帳に包まれ、月の光すら届かない。
「……あの先に隠し通路がある。動くのは、俺が先だ」
声を潜めた凌が、足音ひとつ立てず、奉行所の石垣沿いを滑るように進む。
その後を、書記の響子が懐紙束を胸に抱え、慎重に追っていた。
「気配、消えてます。けど、足音はあなたの呼吸で見失う」
「……悪かったな。文官向けじゃない仕事か?」
「向いてません。が、やると決めたので」
響子の口調は変わらない。あくまで論理的、静かで断定的。だが、その手の震えは隠しきれない。
「恐いなら、引き返せ。俺一人で行ける」
「任務において、感情は誤差です。進みましょう」
彼女の言葉に、凌は眉を一瞬だけ動かす。
それきり、二人はさらに狭く湿った通路を抜け、古井戸の石組み裏へと辿り着いた。
「……ここだ。奉行所と天守を繋ぐ、隠密通路。かつての戦乱の遺構を流用したもんだ」
凌が灯した暗灯籠が、ひび割れた土壁を照らす。その壁面に、わずかだが掘り込まれた痕跡が見える。
「……これは、“私的勘定記録”ですね。数字の書きぶりが、あの帳簿と一致する」
響子が懐紙束を広げ、慎重に照合する。
「ここの“入費”は、政庁からの出納と合わない。しかも、同一名義が――」
「それで足がつくか?」
「ええ。間違いなく“摂政家の裏金庫”と繋がる一連です。公費を偽装して私邸建築に充ててます」
凌は頷き、通路の奥へと目を向ける。そこには、もう一枚の扉があった。
音もなく開いたその向こうに――黄ばんだ文書の束が、古木の棚に並んでいた。
「……あったか」
「はい。これで決定的です」
響子は一冊の簿冊を手に取った。その中には、金の流れだけでなく、受け取り主の署名までもが克明に残されている。
「空気は……凍りますね、これを出せば」
「それでも、出すんだろ?」
「はい。……空気より、事実が優先です」
響子ははっきりと答える。
感情のこもらぬ言葉は、しかし確かに、揺るぎなき意志を宿していた。
凌は一歩だけ響子に近づき、低く言った。
「なら、最後まで護る。……おまえの正しさが、誰にも潰されぬように」
「それは、合理的には嬉しいですね」
二人の間に、初めて淡い笑みのような空気が生まれた。
そして――彼らは文書を懐に収め、再び密道を戻っていった。
秋祭りの花火が遠くに上がるその下で、誰にも知られず、正義が静かに歩みを進めていた。
紅提灯の明かりが遠ざかるにつれ、路地裏は闇の帳に包まれ、月の光すら届かない。
「……あの先に隠し通路がある。動くのは、俺が先だ」
声を潜めた凌が、足音ひとつ立てず、奉行所の石垣沿いを滑るように進む。
その後を、書記の響子が懐紙束を胸に抱え、慎重に追っていた。
「気配、消えてます。けど、足音はあなたの呼吸で見失う」
「……悪かったな。文官向けじゃない仕事か?」
「向いてません。が、やると決めたので」
響子の口調は変わらない。あくまで論理的、静かで断定的。だが、その手の震えは隠しきれない。
「恐いなら、引き返せ。俺一人で行ける」
「任務において、感情は誤差です。進みましょう」
彼女の言葉に、凌は眉を一瞬だけ動かす。
それきり、二人はさらに狭く湿った通路を抜け、古井戸の石組み裏へと辿り着いた。
「……ここだ。奉行所と天守を繋ぐ、隠密通路。かつての戦乱の遺構を流用したもんだ」
凌が灯した暗灯籠が、ひび割れた土壁を照らす。その壁面に、わずかだが掘り込まれた痕跡が見える。
「……これは、“私的勘定記録”ですね。数字の書きぶりが、あの帳簿と一致する」
響子が懐紙束を広げ、慎重に照合する。
「ここの“入費”は、政庁からの出納と合わない。しかも、同一名義が――」
「それで足がつくか?」
「ええ。間違いなく“摂政家の裏金庫”と繋がる一連です。公費を偽装して私邸建築に充ててます」
凌は頷き、通路の奥へと目を向ける。そこには、もう一枚の扉があった。
音もなく開いたその向こうに――黄ばんだ文書の束が、古木の棚に並んでいた。
「……あったか」
「はい。これで決定的です」
響子は一冊の簿冊を手に取った。その中には、金の流れだけでなく、受け取り主の署名までもが克明に残されている。
「空気は……凍りますね、これを出せば」
「それでも、出すんだろ?」
「はい。……空気より、事実が優先です」
響子ははっきりと答える。
感情のこもらぬ言葉は、しかし確かに、揺るぎなき意志を宿していた。
凌は一歩だけ響子に近づき、低く言った。
「なら、最後まで護る。……おまえの正しさが、誰にも潰されぬように」
「それは、合理的には嬉しいですね」
二人の間に、初めて淡い笑みのような空気が生まれた。
そして――彼らは文書を懐に収め、再び密道を戻っていった。
秋祭りの花火が遠くに上がるその下で、誰にも知られず、正義が静かに歩みを進めていた。



