秋の宵、桜洛の北の端、船宿に併設された裏通りの飲み屋にて――。
薄暗い灯りの下、座敷の奥には重い空気が漂っていた。
店の入り口には、拓巳の側近・凌が立ち、さりげなく通行人の目を遮っている。
「……このような場所にお招きとは、思いも寄らぬこと。まさか、黒狐殿ほどの御方が、こうして庶民の酒場に腰を下ろすとは」
そう言って苦笑したのは、摂政家の老臣・大伴家老だった。
年のわりには血色のよい顔に、脂のような笑みを浮かべている。
対して、拓巳は湯呑に手をかけたまま、一切の笑みを見せず、静かに言った。
「ここは無礼講。だが、一つでも虚言を吐けば、その舌を斬る。いいか?」
ぴたりと空気が止まる。
家老の頬が引きつるも、すぐに笑みを繕った。
「はは……、冗談がお上手で」
「冗談には、笑いがあるものだ。俺の声に笑いはなかったろう」
その一言に、大伴の額から脂汗がにじむ。
拓巳は盃に注がれたままの冷酒を一瞥し、言葉を続けた。
「――秋の政変。予定は八夜後、霜初めの夜。お前たちの側から動く、というのが正しいな?」
「……なぜ、それを」
「全て筒抜けだ。お前が御膳に添えた薬、双子の姫君にすり替えた童女、それを裏で手配した連中の名も」
拓巳は懐から小さな巻紙を取り出し、畳にぽとりと落とした。
「それを見れば、貴様の家は三代にわたって賄賂と賭場の胴元をやってきた証が出揃う。幕府がそれを知ればどうなる?」
「……っ!」
家老の顔が蒼白に染まる。
「脅迫か!」
「違うな。警告だ。俺は悪役だ。欲しいのは、結果だけ」
拓巳はそこで、初めて盃を手に取り、冷酒を一口だけ含んだ。
「貴様が黙っていれば、貴様の家は今夜以降も存続する。だが、舌を滑らせれば……その屋敷の床下に這ってる鼠除けが、最後の目撃者になる」
沈黙。
冷たい沈黙。
その中で、拓巳の視線は一瞬だけ、家老の顔を貫いた。
「さあ、どうする。黒狐の“影”に従うか、それとも――“陽”に焼かれるか」
やがて家老は、己の杯を震える手で持ち上げた。
そして、震えながらも盃をあおると、目を閉じて低く言った。
「……お任せします。黒狐様。摂政家は……いずれ滅ぶべくして、滅びましょう」
その言葉を聞いても、拓巳は何も応えなかった。
ただ静かに立ち上がり、振り向きもせずに暖簾をくぐって出ていった。
その背に、家老は目を細めて呟く。
「……あの男の眼には、人の命も、血も、何も映っていない……それなのに……なぜか、怖いのに、羨ましい……」
夜風が、川の方から吹き込んだ。
酒の香に混じって、どこか遠くで、機の音のような響きがした。
薄暗い灯りの下、座敷の奥には重い空気が漂っていた。
店の入り口には、拓巳の側近・凌が立ち、さりげなく通行人の目を遮っている。
「……このような場所にお招きとは、思いも寄らぬこと。まさか、黒狐殿ほどの御方が、こうして庶民の酒場に腰を下ろすとは」
そう言って苦笑したのは、摂政家の老臣・大伴家老だった。
年のわりには血色のよい顔に、脂のような笑みを浮かべている。
対して、拓巳は湯呑に手をかけたまま、一切の笑みを見せず、静かに言った。
「ここは無礼講。だが、一つでも虚言を吐けば、その舌を斬る。いいか?」
ぴたりと空気が止まる。
家老の頬が引きつるも、すぐに笑みを繕った。
「はは……、冗談がお上手で」
「冗談には、笑いがあるものだ。俺の声に笑いはなかったろう」
その一言に、大伴の額から脂汗がにじむ。
拓巳は盃に注がれたままの冷酒を一瞥し、言葉を続けた。
「――秋の政変。予定は八夜後、霜初めの夜。お前たちの側から動く、というのが正しいな?」
「……なぜ、それを」
「全て筒抜けだ。お前が御膳に添えた薬、双子の姫君にすり替えた童女、それを裏で手配した連中の名も」
拓巳は懐から小さな巻紙を取り出し、畳にぽとりと落とした。
「それを見れば、貴様の家は三代にわたって賄賂と賭場の胴元をやってきた証が出揃う。幕府がそれを知ればどうなる?」
「……っ!」
家老の顔が蒼白に染まる。
「脅迫か!」
「違うな。警告だ。俺は悪役だ。欲しいのは、結果だけ」
拓巳はそこで、初めて盃を手に取り、冷酒を一口だけ含んだ。
「貴様が黙っていれば、貴様の家は今夜以降も存続する。だが、舌を滑らせれば……その屋敷の床下に這ってる鼠除けが、最後の目撃者になる」
沈黙。
冷たい沈黙。
その中で、拓巳の視線は一瞬だけ、家老の顔を貫いた。
「さあ、どうする。黒狐の“影”に従うか、それとも――“陽”に焼かれるか」
やがて家老は、己の杯を震える手で持ち上げた。
そして、震えながらも盃をあおると、目を閉じて低く言った。
「……お任せします。黒狐様。摂政家は……いずれ滅ぶべくして、滅びましょう」
その言葉を聞いても、拓巳は何も応えなかった。
ただ静かに立ち上がり、振り向きもせずに暖簾をくぐって出ていった。
その背に、家老は目を細めて呟く。
「……あの男の眼には、人の命も、血も、何も映っていない……それなのに……なぜか、怖いのに、羨ましい……」
夜風が、川の方から吹き込んだ。
酒の香に混じって、どこか遠くで、機の音のような響きがした。



