秋の入り口、桜洛の市中を抜けた先――
 かつて智子が暮らしていた貧民街の外れに、その家はあった。
 ぼろぼろの木戸、軋む廊下、機の音の消えた空の工房。
 智子は立ったまま、かつての自分の部屋の前を見つめていた。
 幼い頃から機を織り、母の遺品を抱えていた場所。
 今は――何もない。
「……帰って、きたのかい」
 低く、乾いた声が背後から響いた。
 振り向くと、そこに立っていたのは、やつれた女――義母であるお常だった。
 その目は相変わらず鋭く、口元は固く結ばれ、かつてと何も変わっていないように見えた。
 ただ、その頬のしわが、ほんの少し深くなっていることに、智子は気づいた。
「……今日は、取り立てに来たわけじゃありません」
 智子はそう言って、包みを差し出した。
 絹でくるまれた、重みある帳簿袋。
「……これは?」
「わたしの織物で得た利益の半分です。材料費や人件費を差し引いても、これだけ残りました」
「……は?」
 お常の眉がぴくりと跳ね上がった。
「どういうつもりだい。あんた、わたしを見返しに来たの?」
 智子は、ゆっくり首を振った。
「見返しても、わたしの未来は変わりません。でも、恨み続ければ、たぶん何も生まれない」
 義母の目が細められる。
「白々しいこと言って。あんた、あたしがどんな仕打ちをしたか、忘れたわけじゃないだろう」
「……はい、忘れていません。でも、思い出すたびに、自分が織った布で、誰かの心がほどけるのを感じたんです。わたしは、それを大事にしたいんです」
 智子は、穏やかに微笑んだ。
「“恨むより、未来を織る”方が、わたしには似合ってる。たとえそれが、わたし一人だけの選択だとしても」
 風が吹いた。
 木戸の隙間から、ひとひらの落ち葉が流れ込む。
 お常は何も言わなかった。
 ただ、包みを受け取り、智子をじっと見つめていた。
 その目には、かつてなかった戸惑いが浮かんでいた。
「……あんた、強くなったんだね」
 その一言が、ぽつりと漏れた。
 それが悔しさなのか、哀しみなのか、あるいは別の何かなのか――
 智子には、わからなかった。
「……さようなら、お母さん。もう、わたしは帰ってきません」
 そう言って、智子は踵を返す。
 その背中に、何の言葉も返っては来なかった。
 けれど、その沈黙の中に、何かが確かに残ったように思えた。
 智子は空を見上げた。
 高い空に、うっすらと雲が流れている。
 その隙間から、冬の陽射しのような、柔らかな光が、少しだけ差していた。