雨期が明けた桜洛の空は、夏の名残を引きずったまま、どこか寂しげな薄曇りをまとっていた。
  その朝、智子は一人、響寺の奥にある稽古場を訪れていた。
 かつて、舞を教わったあの場所。
  いまはもう、しっとりとした静寂に包まれ、ただ風に揺れる竹の葉が、涼しげな音を鳴らしている。
 「……参りました」
 靴を脱ぎ、座敷に膝をついた智子の前で、僧衣の男が古琴を抱えたまま目を開いた。
  響――物静かで、眼差しの深い老僧。
 「よく来た。おまえに伝えるべき“ことば”がある」
 その声は水面の波紋のように、静かに、だが揺るがぬ強さを帯びていた。
 「ことば、ですか」
 智子が訊くと、響はひとつ頷き、琴の前に布を広げた。
  そこに書かれていたのは、一首の和歌。
 『言の葉は 届かぬと知れど 紡ぎゆく
    誰がためならぬ 我がためにこそ』
 「……これは」
 「おまえが、誰かのために織っているものは、やがて“己”を照らす。だが、そのためには“情”を制さねばならぬ」
 響の指が、ゆるりと絃に触れる。
  張り詰めたような低音が、空気を震わせた。
 「挑戦を恐れぬ者は、心を乱しやすい。だが、音楽も機も、乱れては美しくない。だから――」
 絃の音が重なる。
 「情を沈めて、弦を弾け。心を澄ませて、言葉を紡げ」
 智子は思わず、自分の胸に手を当てた。
  最近の出来事が、矢継ぎ早に胸をよぎる。
 拓巳との舞踏会、敵の影、仲間との訓練、義母との再会――
  “揺れる自分”に、自分自身が疲れていた。
 「……わたし、心が波立ってばかりで……」
 「よい。波が立つのは、生きている証だ」
 響は柔らかに言い、琴を指で撫でるように弾いた。
  今度は、音が風のように、智子の髪を撫でた。
 「されど、波の上に舟は漕げぬ。舟を出すには、静けさが要る。己の情を沈めよ。……それが、この国を渡る“舟”を編む者の務めだ」
 智子は目を伏せ、深く、深く息を吸い込んだ。
  やがて、静かに座し直し、響の前に手をついた。
 「教えてください。その舟の編み方を」
 響は、頷いた。
 「よいだろう。まずは、和歌の“間”を学べ。次に、琴の“間”を聴け。――おまえの織る布もまた、“間”によって命を得る」
 その日、智子は一日中、琴の稽古と和歌の練習に励んだ。
  一語一語に想いを込め、心を沈め、波を収める。
 陽が傾くころには、智子の額には汗が滲み、指先には絃の痕が残っていた。
 だがその表情には、静かな決意が宿っていた。
 「情に沈まず、情を沈める。……それが、“闇に光を織る”ってことかもしれない」
 響は、それを黙って見守っていた。
  かつてこの寺で多くの弟子を育てた老僧は、目の前の少女に、確かに希望を見ていた。
 風が止み、空が晴れる。
 その日、智子はひとつの技ではなく――
  “心の在り方”を手に入れたのだった。